
『うそつき、祈祷師になる』(日野裕太郎)
おさないころは兄とふたり、他人には見えないものを共有していた。
ひとり成長したセンは、自分の特異な資質を誰にも打ち明けずにいた。
やがて見合い話が舞いこみ有頂天になるものの、先方の家にはよくない噂とべったり張りつく黒いものがいて……
表題作ほか短編一編収録
【カテゴリ】
短編 | 土着 | ファンタジー | 兄弟 | 中編 | 家族
【twitterで感想いただきました】
代わりに、日野裕太郎さん(
@hino_modoki)「うそつき、祈祷師になる」読み終わった。うひひ。
淡々と暗いばかりに見えるのに、ちゃんと見据えて選択する。背伸びでも無茶でもなく、自分がいて、周りがあって、自分の意志で。この感じがもう、とにかく好き。
うそつき、祈祷師になる(日野裕太郎様/
@hino_modoki)言葉を持たない兄と、彼が何を言わんとしているか理解できる弟セン。離れて暮らす二人。そんな中センに縁談が舞い込んでくるが…。タイトル、どうして彼はそうなったのか。「おぉそういうことか」と思わされました。
【サンプル】
1
音には色がついている。
声でも音でもなく、だがそれは確かな騒音だ。確実な気配だ。
そしてそれらがはらむ感情が、様々な色になっているようだっ
た。
寝ても覚めても、それは周囲を取り巻いている。
激しい赤も穏やかな青も怨嗟の黒も、すべておびただしくな
ればただの暴力に過ぎない。
その音は自分のまわりにだけ存在している。話し声のようで
もあり、毛先をかすかにふるわせるていどの微風のようでもあ
り、四六時中聞こえてくるそれに圧迫されていた。
そういうものがあるのだと理解し、それについて周囲に訴え
たものの、すべて徒労に終わった。ほかの誰のまわりにも、音
など存在していなかったのだ。
存在しないものの共有はできない。
近所のものたちに自分が異端視されることよりも、異端視さ
れる息子の身の上を嘆く両親の姿がつらかった。
――ぼくはかわいそうじゃないよ。
両親に訴えることはしなかった。一度こちらをあわれんだ両
親のまなざしが変わると思えず、ただひたすら憐憫の目と気遣
う気配と、依然あたりを取り巻いている騒音に耐えた。色彩の
嵐に耐え続けた。
言葉を捨てたのは、物心がついたころだ。
そうすればいいのだ、と音のひとつが教えてくれた。それが
まとう緑の陰影が好きで、その提案はすとんと胸に落ちておさ
まった。
言葉を捨て、無言になってみると、色彩の嵐がやんわりとし
たものに変わった。
これならば耐えられる。
緑の陰影の提案はよいものだったのだ。
安堵し胸をなで下ろし、だが言葉を捨てたため、両親や周囲
の人間の声かけは首をかしげてやり過ごすことになっていた。
どう相対すればいいのかわからないのだろう、肉親以外は立
ち去った。
言葉はともかく感情は捨てておらず、孤独感は苛むようだっ
たが、音と色とがもたらす圧力が軽減したことは救いだった。
もっとも大きな救いになったのは、弟の存在である。
ましにはなったものの、続いている周囲の騒音にうんざりし
ていたころ、弟が産まれた。気が紛れた。そして自分とおなじ
ような生きものだった弟に救われた。
おさない弟とは、心のなかで会話することができた。弟の口
は言葉を使って話すが、耳はこちらの声に出さない言葉を拾っ
てくれた。
ずっととなりに寄り添う弟から、親愛をひしひしと感じる。
弟はかわいかった。
おなじく弟に対して親愛の情を抱いていたが、だからこそ弟
がうっとうしくてならないときがある。時折、おまえなんかき
らいだと、弟が泣くまで責めたてたくなる。泣いたら泣いたで、
きっとうっとうしいだろう。泣かせても胸がすくことはないだ
ろう。
弟と寄り添って暮らすうちに、音が強くなっていっていた。
重さをともなうようになっている。
肩や頭に重しを乗せられているかのようで、身体を動かすこ
とがときどき億劫でならない。自由に走りまわる弟の背に、自
分の先行きを絶望しはじめていた。
緑の陰影がやってきて、今度はなにを捨てればいいのか、と
考えた。それが現れたなら、きっとそういった助言をよこすだ
ろうと思ったのだ。
目を閉じてみろ、と緑の陰影はささやいた。
目を閉じる。
見えなくとも感じるだろう、と緑の陰影がささやく。
たしかに感じた。
質量を持った音たちが、ありとあらゆるすべてのものに絡み
ついている。それはどこにでもいるものだった。勝手に自分が
感じて辟易しているだけで、それは森羅万象だ。いなくなるこ
となどない。
感じるなら、見なくてもいいだろう、と緑の陰影がささやく。
目を開けると、そこにはうたた寝をする弟がいた。風にはた
めく洗濯物が見え、空をゆく鳥がはばたく。これらすべてが質
量を持って自分を苦しめている。自分だけが苦しい。
いらないだろう、と緑の陰影がささやく。
見るのをやめてしまえ、と緑の陰影がささやく。
ちらちらと光を透かした木の葉のようなそれの姿を、相変わ
らず好ましいと思った。前よりも大きく厚くなり、そして荒い
ものを湛えている。
ふいに緑の陰影が怖くなった。
うとうとしている弟を起こして、家に逃げこみたい。それを
緑の陰影は見送ってくれるだろうか。こちらをうかがう気配が
し、おもしろがっているような気配がし、そして好ましく見え
る緑の陰影を信じてはならない気がした。
緑の陰影の意識が逸れた、と思うや、するりと消える。
消えるとき、緑の陰影の意識が向いた方向には村の祈祷師が
立っていた。コイトという男で、静かなひとだった。彼の周囲
には騒音がない。だから怖かった。自分とは違うものなのだ。
祈祷師が近づいてくるのがわかり、弟の肩を揺する。
「おにいちゃん」
そこから続く言葉も聞かず、家に駆けこんだ。