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『梅の選択』(日野裕太郎・おおぬまひろし)

【幻想ホラー短編】
気がついたら寒さに震えていた。夢の中だと知っていた。
…そこでは凍てついた花がキラキラと崩れ散り、鬼が咆哮し、モノが揺らめく。

黄泉の国との境界で、死んだ祖母・母の影がちらつく世界で、前に進むのか、振り返るのか選択を迫られる。

文庫 約44ページ(1ページ 39字詰め 18行)

「あんた、のんびり見物してないで、さっさと歩きなさい」
老婆の声に、首をふる──ゆっくり、慎重に。急に動けば、あの貧乏草みたいに砕けて粉になってしまう気がした。目が覚めるまで、ここでじっとしていたい。うんざりしていた。
さらりさらりと、貧乏草は美しく鱗粉のような質量で舞い、漂い出している。
目を刺すほどまばゆい銀のきらめきに、がちがちと歯が鳴る──寒さがいや増している。気のせいではない。それが花でも鱗粉でもなんでもなく、粉雪そのものだと悟った。歯が鳴るのも致し方あるまい。
うううう、と言葉にならない思いが、地の底から響くような低い呪詛めいた音になった。食いしばった歯の間から出た声に、背を向けたままの老婆は、いよいよ声を上げて笑った。
呵々とした声は、次第に禍々しいけだものの咆吼に変じた。

【サンプル】

 一 凍える寒さ
 
 寝つけなくて身体を起こした。
 上掛けをわきに押しやると、湿ったスウェットが夜気に冷え
ていく。心地よかったが、すぐにふるえが来て、枕元にあるカ
ーディガンをたぐった。
 どうしたことか、上着を羽織っても寒さが和らぐ気配がない。
 歯の根ががちがち鳴り出したので、しかたない、と部屋を出
て風呂場に向かった。
 湯船に溜めてある湯を沸かし直そう、と壁の操作パネルに向
けた指がふるえている。追い炊きボタンを押すのもままならず、
あまりの寒さに洗い場にうずくまった。
 うぅんまいったな、と呟く。
 寒さに歯を食いしばり、湯が沸くのを待った。洗い場のタイ
ルにあった素足が凍え、指先の感覚がなくなっていた。
 ほどなくして聞こえた、湯のわく報せに小躍りしたい気持ち
をこらえる。小躍りしようにも硬直したようになった身体では、
服を脱ぐのがやっとである。
 ふたを取れば風呂場が真っ白に煙る湯気。ふわりと顔をなで
た感触に、思わず顔がほころんだ。しかし寒さに凍った唇は引

き攣れ、切れて痛んだ。
 湯につかると温度は低めのはずなのに、全身が冷えていたた
め、強烈な痛みに包まれた。きい、と甲高い悲鳴を三度上げた
ところで痛みは引き、湯船の暖かさにほっと息をついた。
 何故あんなにも寒かったのだろう。
 首をひねったのもつかの間、しめ切った浴室の空気が澄んで
きた。湯気が消え、手足の先がしんと冷えはじめる。
 怪訝に思う間もなく、冷たい、と口に出ていた。
 壁のパネルには湯の温度が表示されている――体温をとっく
に下まわっていた。これがプールの水温だったら、プール開き
も行われない温度だ。
 なんでなんで、とくり返しながら湯から上がった。
 脱衣所であわただしく身体を拭う間も、しんしんと寒さがに
じり寄る。
 なんでなんで、とくり返していなければ、くちびるが凝って
石のようにかたまりそうに寒かった。
 かじかむ指で洗い場の戸を閉めようとしたとき、ずれたふた
の下、水面が見えて驚いた――うえぇ、と間抜けな声が出てい
た。
 見たものが信じられず、近づいて確かめると水面にうっすら

氷が張っている。
 なんでなんで、と呟く声も寒さに負けて弱々しい。
 怖くなっていた。
 自室に戻ろうと、暗い廊下に足を向ける。
 暗い廊下の先、なお暗い人影がこちらをうかがっている気が
して瞬いた。母とふたり暮らしの家、誰かがいるなら母だろう。
しかし母ならば声をかけて来ないのはおかしい。
 断続的になんでなんで、とくり返した後、誰かいるのかと声
をかけた。
 人影が真実そこにあるものか、とそっと近づいた。
 それは母でも押し入った不審者でもなかった。
 人影は壁に貼られたポスターで、農作業の合間に老婆を撮影
したと思しきものだ。ただ壁にポスターが貼ってあった記憶は
なく、しかも被写体は見知った顔であった。
 ああなんだ、おばあちゃんか、と呟いた声はかすれふるえて
いた。声と一緒に白い息がもれ、いっそう寒さを感じる。
 ふり返ると果たしてそこは自宅ではなく、祖母の住まう木造
のかたむきかけた家に転じていた。
 驚いたが、それでようやくこれは夢だ、と腑に落ちた。
 ならばこの寒さを退治したい。自分の夢なら、あるていど自

由が利くかもしれなかった。だが暖かくなれ、といくら念じて
も駄目で、気を紛らわすために暗くかしいだ廊下を行ったり来
たりする。
 閉じた障子の向こうから、唐突に読経が聞こえて来てどきり
とした。いったい誰が、と身構えた。
 祖父母もとうに亡く、仏間で経を上げるものはいない。そう
考えて、思い直す。祖父母が亡いなら、亡きものに対し読経が
上がっても不思議ではない。
 不思議なのは、夢だというのにいくばくも自由にならないこ
とだ。いまだ全身にからむ寒さに、どこか憤った気持ちになっ
ていた。
 祖母の家は年中こたつが出ていた。
 足に古傷のあった祖母は、山裾という立地のせいだろうか、
夏でも朝には痛みを訴えていた。祖母の家なら、こたつがある
はずだ――暖を取るべく障子に手をかけるが、びくともしない。
 なんで、と出た声は怒りをはらみ、それに同調でもしたのか
障子が鼓動した。まるで怒りを内包しているみたいに黒く波打
ち、廊下側にふくれ上がる。
 音もなく、だが規則正しく鼓動する障子を見ていたら、夢と
はいえ怖くなった。怖くて呼吸もままならない。ここが夢のな

かでよかった、と寒さと恐怖でふるえながら、一歩後退った。

 とりあえず障子に向かってすみませんでした、と頭を下げて
詫びた。納得してもらえたようで鼓動がおさまる。しかしもう
障子を開ける気にも、こたつをあてにする気にもなれなかった。
 なにはともあれ、この寒さをなんとかしなければならない。
 ふと湯が冷めたから出て来たが、湯船につかったままずっと
追い炊きをしていればよかったのでは、と思い直した――そし
て実践すべきだ、と自分の案に拍手を送りたくなる。
 だがときすでに遅し、生家から祖母の家に変わったように、
家屋は間取りが変わってしまっている。
 来た廊下は、見知らぬ他人の家のものに変わっていた。
 驚いて首を巡らした。
 壁のポスターの老婆は、引きのばされた猟友会の記念撮影の
写真に変わっていた。昔祖母が見せてくれたアルバムにあった
一枚だ。わきに映るへの字口の男が、初恋の相手だとかなんと
か。
 他人の家はよそよそしく、勝手に立ち入った感があって居心
地が悪い。
 なにより夢とはいえ、寒さは尋常でなかった。

 外に出れば誰かしらに救助を求められるかもしれない。一縷
の望みを胸に、お邪魔しましたと呟きながら、縁側に続くと見
られる雨戸に手をかけた。
 障子と違って雨戸はなんなく開き、ひらけた視野には一面の
野原があった。
 シロツメクサだったろうか、薄ぼんやり光る地平線まで野原
が広がっている。暖を取れそうなながめではないが、風が屋内
より暖かい気がして一歩踏み出していた。
 裸足の足は突っかけサンダルを踏んでいた。すでに祖母の自
宅周辺のながめではないのに、サンダルが祖母愛用のものだと
いうのが不可解である。
 サンダルをはき、たたらを踏むようにまえに出た。
 確かに頬に感じる風はとても暖かい。心なしか、吐く息の白
さがやわらいでいる気がした。しかし寒いものは寒いのだ。や
はり屋内で暖を取る手段を探そう、と目を移すとそこに家はな
かった。
 
 二 梅の思い出
 
 忽然と、家がまるごと消えていた。

 広くなった視野、そこには茶色いものが一面に敷かれていた。
 すだれだった。
 無数のすだれが広大な面積一面に敷かれていることより、も
う立ち戻る家がないことが気がかりだ。がっかりもした。
 シロツメクサに目をやり、もう一度すだれに視線を戻す。す
ると大量のまるいものが現れ、すだれに鎮座する――梅干しだ
った。
 祖母が土用干ししていたのを思い出し、それで納得する。
 広大なすだれに干される大量の梅干し。これだけの量を干す
なら、家があっては邪魔だろう。寒さにその場で足ぶみをしな
がら、ゆっくりと、だが目視で確認できるはやさでしぼんでい
く梅を見る。
 うまい梅干しになるといい。祖母お手製の梅干しを思い出し
たら、口中につばがあふれた。飲み下すと寒さに嚥下さえ痛み
をともなうと知り、いよいよ暖を取って対策せねばならない、
と野原に向かって足を動かした。
 かたく縮こまった筋肉は、ぎくしゃく音を立てないのが不思
議な動きをする。
 凍えた爪先は白を通り越して青白く、そのうち紫になりそう
だ。

 シロツメクサは、寄って見ると凍っていた。
 踏むとしゃくり、とかき氷をさじで突いたような音がする。
シロツメクサの小さくいとけないたたずまいに、最初は踏むの
がためらわれた。だが新雪を最初に踏むときのような楽しさに、
歩みははやくなっていく。
 しゃくしゃくと、飽くことのない楽しい音がする。
 いとけない花を踏むうちに、凍えはすねをくるみひざをつか
み、腿にはい上がっていた。
 動けば暖かくなるのが道理だろうが、凍った花を踏みながら
歩いているせいか――腿がだるくなるほど歩いたところで、一
向に体温が上がらないまま。
 行けども行けども、目のまえに広がるのは一面の野原のみ。
凍りつき、吹き行く風さえあまりの寒さに先を急ぐような、ほ
のかに白い光景。
 暖かみを欠いたながめは気を滅入らせる。戻って土用干しの
すだれを借りよう、と息をついた。意味がなさそうにも思えた
が、すだれを身体に巻けばいまよりはましかもしれない。
 ふり返ろうとすると、
「あんた、いけないよ」
 声に動きを止めた。瞬いた一瞬で、目の間に人影が現れてい

る。
 人影は背を見せていた。小さな背中をまるめ、手をのばせば
届く場所に立っている。
「ここに来ておいてふり返るなんて、阿呆のすることだ」
 寒いのでせめてすだれを借りたい、と説明しようとするが、
口が意のままにならず肩を落とした。
「寒いのか」
 人影の問う声に、ただあごを引いた。
 こちらを見ていない人影は、だが納得したように幾度もうな
ずく。
 その姿から、相手が老婆であると推測する。
 ふと祖母でないか、祖母であればいい、と考えた。だが声に
覚えもなく、背中は祖母の倍はある。亡き祖母に会えてもいい
ではないか――夢なのだから。
 風が吹く。
 シロツメクサは揺れるとき、凍った花弁同士がしゃらりちん、
と冷たく心地よい音を立てた。
「寒いのは、あんたが寒いからだ」
 こたえようとする声は、ふるえる呼気になった。言葉にでき
ない。

 この極寒に身を置くものの声音とは信じられないほど、老婆
の声はゆったりしていた。そして吐く息が風に白く流れていな
い。それは老婆もまたこちらとおなじく、苛烈な寒さに身を置
いている証しだ――冷え切った老躯から吐かれる息も、外気に
劣らず凍えているのだから。しかし老婆と違い、まだ自分の息
は白い。自分より凍えているとは、これまた信じがたい。
 老婆から続けて放たれた声はやはりゆったりしている。くつ
ろいだ声に妬みに似たものを抱く。
「あんたが寒くなくなれば、寒くなくなる」
 世迷い言みたいな声を無視し、見た場所へ引き返そうとした。
するとこちらの様子は見えているはずもないのに、こら、と強
い声でたしなめられた。
「こっちだ」
 音もなく老婆は先を行く。
 知らないひとについて行ってはいけません――屁理屈をいお
うとするも、そんな元気はなかった。どうせ夢だ、と捨て鉢に
胸中で吐き捨てた。
 凍えてしまって、動かすのも容易ではない身体を引きずって
歩く。
 老婆は土地勘があるのか、迷わず、まるでなにかを目指すよ

うに歩いている。
 もしかして夢というのは誤解だろうか。そもそも自分の見て
いる夢、というのが誤解なのか。誤解であれば、いかんともし
がたいこの寒さを、意のままにできないのもうなずけた。
 どこまでも老婆は行く。
 ぎこちない歩みで両者は進んでいる。老婆は老いのため、こ
ちらは寒さのため。
 しばらく行ったところで、背後をふり返りたくてしかたなく
なった。その都度読心術の心得でもあるのか、老婆にこら、と
叱られる。
 背にあるのはすだれと梅干し、そして凍って涼しい音を立て
るシロツメグサだけだろう。
 何故こんなに叱られるのか――
「あんた、はやいとこ歩きなさい。つまらんこと考えてると、
寒いだろうに」
 声に同情の響きがあり、かえって足が鈍る。
 飽くことはないだろうと思われた、しゃくりと踏み砕くシロ
ツメクサの感触にも、さすがに厭いて来ていた。見えるものも
単調である。身が感じる寒さを具現したような、白とかすかな
青と、刷いたような薄い影の灰色、そして氷結の銀。

 死んだような、眠りこけたような、時間の流れに背を向けた
ような世界だった。
 なにか気を紛らわせていないと、寒さと真っ向から対峙しな
くてはならなくなる。吸う息の冷たさにのどを傷め、軽く咳き
こむ。咳きこんだ衝撃に、全身の筋が痛む。スウェットの裾を
にぎった指が、かたまって動かなかった。暖かい湯につけて指
をほぐすところを想像し、それから自分を取りまく環境を確認
して、ひどくがっかりしてしまう。
 いつ目が覚めるのだろう?
 確か夢は入眠から覚醒する――起床する直前の、眠りの浅く
なったわずかな時間、それこそ一瞬に見ている、と誰かに教わ
った覚えがある。こんなにも永く歩き、寒さに疲弊しているが、
起きればあっという間に薄れる一瞬の夢なのか。こんなにも辛
い思いが、実感もなく消える夢なのか。
 やりきれない不平を感じ、歯を食いしばった。
 暗く重くなっていく思考を断ち切ったのは、先を行く老婆の
笑い声だった。
 肩をかすかにふるわせ、こつこつと妙な笑い方をする。怪訝
に思う足下がふらつく。
 じゃぐ、とひときわ大きな音がした。

 シロツメクサに目を落とす。そこは可憐な花に取ってかわっ
て、一面に貧乏草が生えていた。
 とうにサンダル履きの足に感覚はなく、踏み砕かれた冷たい
破片が足の甲に当ってもなにも感じなかった。
 凍った貧乏草は、踏まれると可憐なたたずまいのまま砕けた。
飛び散った破片が、屹立するほかの貧乏草に当たる。破片が当
たると、またそれもたやすく砕けた。
 自分を輪の中心に、朽ち砕けた花は舞い輝く。
 白い貧乏草、桃の貧乏草――凍った花弁は白銀に輝いて踊る
うちに、空気に紛れて粉雪のようになっていた。
「あんた、のんびり見物してないで、さっさと歩きなさい」
 老婆の声に、首をふる――ゆっくり、慎重に。急に動けば、
あの貧乏草みたいに砕けて粉になってしまう気がした。目が覚
めるまで、ここでじっとしていたい。うんざりしていた。
 さらりさらりと、貧乏草は美しく鱗粉のような質量で舞い、
漂い出している。
 目を刺すほどまばゆい銀のきらめきに、がちがちと歯が鳴る
――寒さがいや増している。気のせいではない。それが花でも
鱗粉でもなんでもなく、粉雪そのものだと悟った。歯が鳴るの
も致し方あるまい。

 うううう、と言葉にならない思いが、地の底から響くような
低い呪詛めいた音になった。食いしばった歯の間から出た声に、
背を向けたままの老婆は、いよいよ声を上げて笑った。
 呵々とした声は、次第に禍々しいけだものの咆吼に変じた。
 
 三 白銀の広野
 
 依然背を向けたままの老婆であったが、すでに老婆の姿では
なくなっていた。
 はち切れそうになっていた割烹着は、いままさに裂けはじけ
散ろうとしていた。繊維の切れるいやな音を立てる。すいすい
とのびる老婆の上背は、見上げるほどになっていく。
 奇怪な光景だったが、気にかかっていたのは梅干しのことだ
った。
 雪が降ってはせっかくの祖母の梅干しが台なしになると、そ
んなことを思っていた。
 重く凍えた、意のままにならない身体で、かろうじて後退し
た。
 その間にも老婆の身体は大きくなっていく。衣類が裂ける音
は、何故だか聞こえなくなっていた。代わりに、まったくもう

と女性の声が――母のぼやく声が聞こえた。
 妙なところで母の声を聞いてしまったためか、笑いそうにな
った。
 内臓まで凍えたのか、笑いの動きに腹や胸がひどく痛んだ。
 剥き身の裸体になった老婆は、もう老婆ではなかった。
 赤銅色の肌は壮健な男性のもので、背中は筋肉で盛り上がっ
ていた。まるでボディビルの見本だ、と思ったとき、それはこ
ちらを向こうとした。
 顔を見るのが怖かった。
 それの顔が母だったら、と思ってしまった。
 夢の中なのだから、なにがあっても大丈夫、と胸中でまじな
いのように呟くが、一度自覚した恐怖は瞬く間にふくらんだ。

 頬骨のあたりまで、それの顔が見えた。
 怖くて怖くてたえきれず、きびすを返すと走り出した――走
り出そうと、した。
 うまく動かない足が颯爽と走り出すわけもなく、顔面から地
面に突っこんだ。とたんに全身をひどい痛みが襲った。まろぶ
瞬間に、一面が銀世界になっているのがわかった。雪は衝撃を
吸収してくれたはずが、もともと石のようになっていた身体は

それこそ砕け散った、と錯覚するほどの痛みに包まれた。
 過度の痛みは叫びも封殺し、身体の前面が粉雪に埋まってさ
らに冷やされた。
 これ以上冷えようがないほど凍えていた。
 去ろうとする痛みの裾がまだ視界にあるのに、今度は背後か
ら咆吼が近づいていた。それは難の終わりが遠い、と嘲笑まじ
りに知らせていた。痛みを上回る恐怖に、心臓が止まらないの
が不思議だ。
 それは首の後ろあたりをつかむと、こちこちになっている身
体を持ち上げた。赤銅の身体を見ているためか、軽々と行われ
ている確信があった。
 痛みは壮絶だ。全身がけいれんし、それもまた新しい痛みを
呼びこむ。
 高くなった視界、銀世界が唐突に途切れる場所があった。
 祖母の家があり、他人の家となり、そして消えてしまった場
所だ。
 土の色が見える。
 鼻腔が、掘り返された、青く湿った土のにおいを感じ取った
気がした。
 遠い。

 あそこでは貧乏草は凍っておらず、からっとした手触りのす
だれの上で、土用干しの梅がゆっくり乾いていっている。
 自分が元々いた場所だ。
 寒さから逃れようとあそこから出て来た。しかし首をつかむ
それとともに遠ざかる彼の地は、いまいる場所より格段に暖か
い気がした。
「未練がましいこと考えてんじゃないよ」
 こころを読み、苛烈な声がかかった。
 声はもう老いた女のものではなかった。加工されたように聞
こえるエコー、過剰に低い、だが男とも女とも取れない声。紛
いものの声である。こちらを欺くことに迷わない声である。老
獪さで巧みに相手をからめ取る声である――拉致連行される状
況だからか、そんな埒もない思考が頭をよぎった。
 腕力から男なのか、と思うが、寒さと首の痛みが思考の邪魔
をはじめて、ままならなくなっている。
 それでも身の上によくないことが起ころうとしている、とい
う予感は、脳裏で確固たる事実になろうとしていた。
 首にかかる力は強くなり、抗おうにもまとも動かない手足は、
木の葉のように頼りない。祖母の家が建っていた場所が恋しか
った。連れ去られようという虜囚としては、ただただ夢よ覚め

ろ、と願うしかない。離れていく暖かい場所への未練が募った。

「そんなに見てたって、行けないよ」
 むしろ優しい声でそれはいう。
「はやいとこ、あっちに行こうか」
 あっち、とはなんだろう――
「行けばわかる」
 行ったらどうなるんだろう――
「いまから心配したって損だ」
 暖かい場所が遠ざかる。
 あそこの外気がぬくいのではないのだ。
 祖母の思い出の場所だったかたむいた家を、干される梅干し
を、建てつけの悪かった障子襖を思い出した。そこで育った母
は陰気だと嫌っていたが、自分はとても静かで居心地のよい家
だと思っていた。安らいだ気持ちは暖気に包まれる。
 あそこはそういう場所なのだ。
 首をつかむ指は、ときおり力をこめ直す。体重がそこにかか
っていて辛く、その都度痛みが増した。うめき声というより、
叫びに近い声がほとばしる。
「着くまで、しんぼうしてな」

 着くまで――
「すぐだ」
 心配するようなことの起きない場所だろうか――
「……心配心配心配心配心配心配心配心配――」
 くり返される言葉の最後は笑い声にまみれ、嗤われていると
わかった。
 目が覚めないのは何故だ――
 祖母や母の面影は思い出せていたが、思い出はなにひとつよ
みがえらない。
 そもそも――
 自分は誰だ――
 首で固定されて自分の身も確認できない。さて、自分は男か、
女か。そんなこともわからない。
 思考を読むのだろう、ひどい声でそれは嗤った。
 まるで鬼だ、と思った。先刻見た赤銅の肌がそう連想させる
のか。一度そうと納得すると、もう鬼としか思えなくなった。

 はやく目が覚めてくれないと、なんだかひどいことが起こる
気がする。
 ああ、と嘆息とともに出た自分の声はしゃがれていて、男か

女かわからない。
 もう祖母の家があった場所がどこだったか、離れすぎて見当
もつかなくなっていた。
 見渡す限りが白銀で、目に痛みをもたらすほど明るく見える。
 もう自分の身体についている手足に感覚はない。試しに動か
そうとすると、首をつかむ指に力がこもって邪魔をした。
 凍った貧乏草が砕けているのか、遠くでたまにしゃんしゃん
と音がする――さっき見た、花弁が粉雪に変じる様を思い出す。
しゃんしゃんと耳に涼しい音。それだけで確立し、何者かが手
をふれることを拒絶する音。温度のあるものは不要なのだ。
 鬼は着実に進むのに、しゃんしゃんという音との距離は開か
ない。ならば降雪の範囲は広がっているのだろう。鬼の雪を踏
みわける音に混ざるが、とても美しい音だ。
 灰の空と白銀の広野の地平線でたゆたう美音は、聞くうちに
不安になる。
 唐突に鬼が足を止めた。
 
 四 鬼と幻
 
 べつの足音があって、こちらに近づいていた。

 足音はひとつではなかった。いくつもある――大勢だ。鬼が
うなり、首をつかんでいた手から解放された。
 積もった雪に、また顔から突っこんだ。
 今度はほとんど痛みを感じなかった。感覚が麻痺しているの
か、ようやく夢のなかだという恩恵を受けられたのか。
 大勢の足音は、離れた場所で止まった。
 本当に動いているのか、自信を持てない身体を動かす。
 さびた機械を無理に動かすような音がした。身体が金属でで
きている、と思った――ならば落ちて痛みを感じなかったのも
道理。依然身を包む寒さは、オイルでもさせば緩和されるだろ
うか。
 身を起こすにつれ、体内でオイルならぬ血液が循環をはじめ
たか、金属めいた音は消え失せた。かわりに鬼や自分の周囲に
いるものの声がした。
「どうしてそこにいる」
 一斉に上がった声に、鬼がうなる。
 ようよう上げた顔がそれらの姿をとらえた。
 白かった。不定形の、白い幻に見えた。頭らしき部分があっ
たが、うっすらと陰影らしきものがあるだけ。目鼻立ちは確認
できない。それは陽炎みたいに揺れ、ひとのかたちになりそこ

ねた四肢は、もやになって消えている。しかし確かに足音を先
ほど聞いていた。
 ふるえながら首を巡らせた。
 陽炎たちは鬼のまえ、ゆるい弧を描いて立ちはだかる。赤銅
の鬼の彩りばかりが浮き上がり、不躾で滑稽なほどあざやかだ。
「どうしてそこにいる」
 怜悧な翁の声だった。
 ゆっくり立ち上がる。痛みは凄まじい。それを紛らわせよう
と、陽炎の数を数えた。十を超えたところで止めた。数えるか
わりに、一歩後退する。もう一歩。陽炎がくり返している、鬼
に問いかける声に歩く音は紛れて消えていた。
「いてはならん」
「やかましい。これは連れて行く」
「いてはならん」
「黙れ。戻してなるか」
「いてはならん」
「いうな。あちらにいてなんになる」
「苦楽はおまえが負うものではない。これより先に行かせるわ
けにはいかん。いてはならんのだ」
 がたがたふるえる身体にむち打ち、ゆっくりと、できるだけ

音を立てずに済むよう、慎重に後退していく。
 知己なのか、もめているらしい。鬼は自分を連れて行こうと
し、幻はそれを阻止しようとしている。ああそうだ、鬼は自分
をどこかに連れて行こうとしてた。行き先がどこなのか、知っ
てはならない気がした。
 もめごとには首をつっこまないに限る。自分についてやり合
っている気がしないでもないが、つき合うのはごめんだ。
 自分がどうしたいのかが肝心だと思った――自分は祖母の家
に戻りたい。
 寒い上に、全身が痛んでいる。微動だにせず、じっと痛みが
去るのを待ちたいが――なによりこれは夢だろうと思う。どう
にかして寒さも痛みも消したい。だがいくら願っても、意のま
まになる気配はなかった。
 凍える息を吐く。祖母の家の跡地に立ち戻り、梅干しが無事
か確認せねばならないと強く感じた――いまは亡き祖母の梅干
しなのだ。
 鬼と幻は対峙したまま、依然わあわあいい合っている。剣呑
で殺気が漂っていた。鬼の胸ほどの高さしかない幻は、じわじ
わ鬼に迫っていた。
 幻はゆっくり、しかし確実に鬼を包囲する輪を狭めていた。

 祖母の家に向かうべく、静かに後退する。
 すこしずつ、すこしずつ。
 ゆっくり後退する。
 けっこうな距離を稼いだとき、鬼がそのことに気がついた。
獲物が離れていっていると知り、鬼は赤銅の身体をさらなる赤
に染めて吼え出した。
 そのとき鬼の後方に回りこんでいた幻が、巨大な背中に取り
ついた。ゆるくなった餅を叩きつけたような有様である。幻が
唐突に実体を持ち、粘菌みたいになるのは興味深い。
 悪態をついて身をよじるが、鬼がどれだけがんばっても粘菌
はふり落とせなかった。
 次々に幻が鬼にはりついていく。めっちりと重い質感で、赤
銅の身体があっという間に白くなった。
 地上に残っている幻のひとつが、
「いてはならん」
 行け、とうながしているとわかった。
「もどれ。いてはならん」
 けだものの声で鬼が叫ぶが、言葉になっていなかった。状況
はどうあれ、鬼から逃れるにはいい機会である。
 ありがとうございます、とかすれた小声を落とすのと、残っ

ていた幻が鬼の顔を目がけて飛ぶのが同時だった。
 
(※本編に続く)

















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