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『でもほら繁殖するしかないの』(日野裕太郎・日野裕太郎)

【ホラー中編】
いつの頃からか母たちは壊れていく。壊れた母は、いくら殺しても蘇える。
衝動に突き動かされ、獣性を抑えきれず、襲いかかってくる母。

娘は自分もいずれそうなるのだ、と諦念にからめ取られながらも、狂った母を返り討ちにするために武器を手にする。
殺さなければ、殺される。

ホラー(スプラッターホラー)の重層構造が母と娘のドラマを描きだす。

たとえば。スティーヴン・キングの『キャリー』や『デスペレーション』などにピンときたら、こちらもゼヒゼヒ!

文庫 約42ページ(1ページ 39字詰め 18行)

──殺さないと。
機嫌のよくなった母を、止めなければならない。
前回は父の当番だった。
そのまた前は弟の番だったが、部活の合宿で出ていたため私が代わった。ちなみに欲しかったCD二枚で、その貸しはチャラになっている。
父も弟も、どこか泊まれる場所を確保できればいいが。
今日はいきなり母の機嫌がよくなっていた。
普段は予兆があるのだ。徐々に機嫌がよくなっていき、家族は気構えと実質的な準備ができる。
今朝家を出たときには、まったく母の感情に起伏はなかったのに。
明日の晩は、父が楽しみにしている大河ドラマの一挙放送がある。それまでになんとかしておきたい。母を殺してしまわないと、のんびりテレビを見ている状況ではないのである。大河ドラマを録画しようにも、デッキには私が録り溜めているドラマがいくつかあって、余裕はない。
母の歌声が止み、けたたましい笑い声に取って代わる。
機嫌のよくなった母の獣性は、これからエスカレートしていくはずだ。それは毎度のことで、わかり切っていることである。
──大丈夫、殺したところで母はすぐよみがえる。

【サンプル】

 1
 
 帰宅すると、母が笑っていた。
 いたく上機嫌の体で母はかたかた笑い、ときおり歌う。
 なにを料理しているのか、玄関を開けたとたん濃厚なケチャ
ップのにおいがしていた。
 高くのび上がった母の歌声が窓ガラスをふるわせるにいたっ
て、私はぼんやりながめていた母の背中から目をそらした。
 足音を殺し、私は慎重に動く。
 まだ母は私に気がついていない。
 一階奥にある自分の部屋に、私は抜き足ながら逃げこんだ。
追いすがるように、母の笑う声が大きくなっていった。
「……なにこれ」
 足音を殺して向かった部屋はひどいありさまで、私は思わず
つぶやいていた。
 頭にくる――だが母の機嫌がいいのだ、しかたがない。わか
ってはいるが、私はやりきれない気持ちで肩を落とした。
 帰宅してすぐかぎ取ったケチャップのにおいは、自分の部屋
に入るといっそう強くなった。濃厚で気分が悪くなるほど甘い
ケチャップのにおいが、部屋中に立ちこめている。ぬちゃりと

湿った感触に、踏みこんだ足が取られそうになった。
 窓から入る夕焼けだけが光源の薄暗い部屋、私はカバンから
携帯電話を取り出し、父の会社に連絡を入れる。
 私からの電話を取った女性は、眠たそうな声をしていた。確
か新婚だと聞いている――もうじきいなくなる、と父がいって
いた。
 取り次いでもらった父は、私がわざわざ会社に電話した用向
きを察していた。
 ううぬ、と父はうなった。
「お母さんが、あれなの」
 努めて明るい声で私はいう。
「私が当番だから」
『……じゃあ、父さん二三日帰るのよそうかな』
 ため息まじりの声、私はそうするよう勧めた。
 弟にも帰らないよう伝言して、と頼むと、
『ほのか、平気か?』
 やはり私は明るい声で請け負う。へいきへいきへいき、と連
呼した。
 父はまたため息をつき、そこで私は電話を切った。
 機嫌がよくなった母から――台所から、重い音が響いている

 携帯電話を私はしばし見つめた。
 気が重く、しかしやらねばならない。
 やるのは自分だけなのだ。
 ぐんぐん部屋が暗くなる。
 夕焼けが夕闇になり、暗い部屋で私は靴下を脱いだ。たっぷ
りとケチャップを吸って重い。裸足で踏んだカーペット、やは
りぬかるんだ感触に顔をしかめる。
 いずれ掃除をすることになる。
 徹底的な掃除が必要になるのだ。素人の手には負えない。専
門業者を呼んで、ハウスクリーニングを頼む。
 毎回そうだ。
 聞こえてくる母の声とは距離がある。まだ私には気がついて
いないだろう。
 意を決し、私は部屋の電気をつけた。
 惨憺たる光景が眼前に広がった。
 強いにおいがするはずだ――部屋はケチャップまみれになっ
ている。
 まき散らされたケチャップの量は膨大で、いったい何本分な
のか。ここまでひどいとは思ってもみなかった。床や家具のみ
ならず、壁やカーテンレールにまで、赤くこってりしたケチャ

ップが乗っかっている。
 うかつに動けば、制服が汚れる。
 私はクリーニング代を考え、制服を脱ぐことにした。これか
らのことを考えれば、なんにせよ着替えることになるのだ。ケ
チャップのにおいに気が滅入っていた。いっそ裸でいた方がい
い気がする。
 私の部屋で、ケチャップの被害に遭っていない場所はなかっ
た。
 苛々しながらセーラー服を脱ぐ。途中、スカーフを取り落と
しそうになってあわてた。スカーフのはじっこが、床のケチャ
ップに接触してしまう。私は盛大に舌打ちをした。依然聞こえ
ている母の笑い声、その方向をにらむ。
 手早くまとめたものの、セーラー服の置き場所にこまった。
考えた末、私はベッドの上掛けのなかに突っこんだ。
 かろうじてケチャップの被害のない床を選んで動く。タンス
から出したジャージの上下に着替えながら、私は母の歌声に神
経をかたむけていた。
 ――殺さないと。
 機嫌のよくなった母を、止めなければならない。
 前回は父の当番だった。

 そのまた前は弟の番だったが、部活の合宿で出ていたため私
が代わった。ちなみに欲しかったCD二枚で、その貸しはチャ
ラになっている。
 父も弟も、どこか泊まれる場所を確保できればいいが。
 今日はいきなり母の機嫌がよくなっていた。
 普段は予兆があるのだ。徐々に機嫌がよくなっていき、家族
は気構えと実質的な準備ができる。
 今朝家を出たときには、まったく母の感情に起伏はなかった
のに。
 明日の晩は、父が楽しみにしている大河ドラマの一挙放送が
ある。それまでになんとかしておきたい。母を殺してしまわな
いと、のんびりテレビを見ている状況ではないのである。大河
ドラマを録画しようにも、デッキには私が録り溜めているドラ
マがいくつかあって、余裕はない。
 母の歌声が止み、けたたましい笑い声に取って代わる。
 機嫌のよくなった母の獣性は、これからエスカレートしてい
くはずだ。それは毎度のことで、わかり切っていることである。
 ――大丈夫、殺したところで母はすぐよみがえる。
(※ 本編に続く)

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