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『星待ち花の揺れる庭』(日野裕太郎・みさわりょう)

【ファンタジー長編】
身体を壊した父とまだ幼い弟たちのため、自ら買われていったロロ。
極貧の街から、まばゆく輝く屋敷に移り住むことになったロロを迎えたのは…人外の住人たちだった!

昼は男性、夜は女性。艶かしくも美しいブロンドの主(あるじ)
第三の目を持つ執事。
角を持つ給仕の女性。
黒猫に変化する庭師の少年。

なぜロロが選ばれたのか、人外たちの住む世界はいったい!?
ロロの世界と並行して隠されている世界は、我が子を思う母親の悲痛な願い。ふたつの物語世界をロロの真摯な生き方を通じて旅するストーリー。

文庫 約221ページ(1ページ 39字詰め 18行)


「さっきもいったけど、あたしはサムカ。本性は猛るもの」
「……はぁ」
なんのことか、とロロが間抜けな返答を返すと、サムカが帽子を取った。
彼女は頭部に一対の大きな白い角を持っていた。
赤毛をかき分けて生える角は、頭部に沿って湾曲している。
彼女の立派な角をロロは凝視し、硬直した。
「よろしく。……冷めないうちに、スープ飲んじゃいなさいね。おいしいよ」
驚いてしまい、ロロは反応を返せない。
少年が咳払いをした。
「俺、コルデワ。雑用だよ。たいてい庭で植木いじりやってる。本性は探るもの」
ロロは食器を取り落としそうになった。
着席していたコルデワが、紙を丸めるようにくしゃりと消えたのだ。なにごとかと問う言葉を探していると、彼のいた席に金目の黒猫が現われ、テーブルに前足をかけた。
「わからないことがあったら、なんでも訊いてくれよ。力になるから」
艶やかな毛並みの黒猫が、コルデワの声音でしゃべる。ぱくりと開いた口内の赤は、感心するほど鮮やかだ。
ロロはベルを見る。人間に見えるベルに、すがりたい気持ちだった。
「私の本性は裁くもの」
いって、ベルは手のひらでひたいをすり上げる。
するとそこに黒い瞳が出現し、何度か瞬いて消えた。
追いつめられた気分で、ロロはプールを見た。
男か女かわからない相手は、まなじりを下げると大口を開ける。
プールは見事な赤い炎を吐いた。
俺、よく気絶しないな──目にするすべてを、ロロは遠くに感じた。
「歓迎するよ、ロロ」

【サンプル】

 序
 
 当たり前すぎて、これまでに意識したことがなかった。
 ロロの気分は重い。『救護の手』の呼び出しに走っていた。
走る距離がのびればのびるほど、自分は恵まれていないのだ、
といまさら実感させられる。
 昼間だというのにいつも薄暗い空を見上げたら、知らぬ間に
小走りになっていた歩調がゆるんだ。
 開いた窓からのぞいた顔と目が合ってにらまれる。その顔は
気鬱きうつに黒ずんで、ロロの父とおなじ色をしていた。
 でこぼこで欠けの目立つ石畳に目を落とす。
 足が止まってしまった。
 後ろから来た男が、ロロの肩にぶつかった。
「あぶねぇだろう、クソがきが!」
 怒気どきをはらんだ大声の後、男は不明瞭な言葉を続けて吐いた。
ロロがちょっと身をすくめると、男は舌打ちをして行きすぎた。

 男が立ち去っても、強い酒気があたりに残っていた。ロロは
息を止めてやりすごす。
 とぼとぼ歩き、ロロは呼び出されたんだ、と胸のなかでつぶ

やいた。
 顔を上げ、ロロはあたりのくすんだ景色を見た。
 汚れ、かしいだ家がみっしりと軒を連ねる。明るい色はどこに
もなく、だがロロが生まれてからずっと暮らした場所だ。
 ――見納めになるのか。
 どこからか漂ういやな臭いも、罵声とも悲鳴とも判じかねる
怒号も、なにもかもがロロには馴染み深い。
 スラム街であるゴモの日常風景だ。
 また後ろから来た男が、ロロに邪魔だと吐き捨てて道を行く。
 ロロは歩き出した。
 靴の代わりに布を巻いた足の立てる音は頼りなく、それに準
ずる衣服はみすぼらしい。だがゴモの住人のなりとしては、至
極まっとうなものだった。
 大袈裟でなく、ゴモに生まれた以上、順風満帆といいがたい
人生を送るのは運命だ。ロロをふくめ、住人の誰もが胆に銘じ
ている。
 物心ついたころからロロもわかっていた。
 当たり前すぎて、しみじみ考えたことはなかった。
 貧民街で暮らす家族の、ただでさえ悪かった状況が悪化した
のは、石工の父が仕事中に事故にってからだ。

 父が足と利き腕の骨を折り、働けなくなったのだ。
 これ以上悪くならないだろう、とふんでいた生活がさらに悪
化した。
 事故に遭ったとたん、母が姿を消した。
 母は近所に住んでいた商人と手を取り合い、なけなしの品を
金に替え、全部持って消えてしまった。
 母の失踪は、怪我で意気消沈していた父を追い討った。
 気落ちした父は気管を病み、寝つく一方で――唯一の救いは、
憂さ晴らしに暴力をふるう外道でないことか。
 家族を養うには、ロロとすぐ下の弟でどんなに働いても追い
つかない。
 仕事を増やしても焼け石に水で、家計の悪化に歯止めが利か
ない。
 下の弟たちは幼く、まだ稼ぎの頭数に入れられない。
 家をいくら見回しても、切りつめるものが見つからない。
 売れるものもない。
 悪化という言葉で、状況は表しきれない。
 母乳でふっくらしていた末っ子がやせはじめて、ロロは覚悟
を決めた。
 空腹に泣く末っ子をあやすときにロロを満たしていく、絶望

的な気持ち。
 あっという間に軽くなった弟は、泣く声も弱々しい。衰えた
乳児は命を脅かされやすい。驚くほど簡単に命を落としてしま
う。感冒でも危険極まりないのだ。
 ――兄弟を死なせる気はなかった。
 夏の終わりにロロは意を決し、地元やくざが運営する『救護
の手』に自らを登録した。買い主が順調に現れれば、家族は容
易に冬を越せる。
 そして冬を前にしたいま、ロロを呼び出す連絡があった。
 目的地を目の前にして、ロロは目をこする。こうこうと明か
りの灯された一角は、夜道の暗さに慣れた目にしみた。
 暗い道に目立つ赤い光は、点々と道の脇に設置されたかがり
火よりも規模が大きく、圧迫感があった。
 頑丈そうな扉とひかえた用心棒に、ロロは息をつく。
 互助組織と自称する『救護の手』には、いい噂はなかった。
 ようするに、『救護の手』は人身売買組織である。
「ジャンさんに呼ばれて来ました」
 ロロは用心棒に挨拶をする。彼が背の扉を叩くと、間を置か
ず開かれた。
「やあ、ロロ」

 顔をのぞかせたのは、所長のジャンだ。
「さ、なかに入るといい」
 ひと当たりがよくやわらかいジャンの態度が、ずっとロロに
は怖かった。
 扉のなかに足を踏み入れると、さも打ち解けた様子でジャン
はロロの肩を抱いた。退路が断たれた感がある。自ら大きな蜘
蛛の巣に飛びこんだのとおなじだ。
 ジャンへの抵抗を抱えた頭で、愛想のいい返答を即座に見つ
けられなかった。
 逃げ場はないのだ。
 登録した時点で退路はない。
 よくわかっていたはずなのに。とうに観念してしかるべきなの
に。それでもなおジャンを警戒していた。彼が自分を食いもの
にするのはわかりきっている。
「悪いねぇ、急に呼び立てて。おやじさんの具合はどうだい?
 かあさんから連絡は?」
 ロロはぎこちなく笑う。
「変わりないです」
「そぉか大変だなぁ、気落ちするなよ、ロロ」
 陽が落ちてから『救護の手』を訪れるのは、はじめてのこと

だ。
 逢魔おうまが時をすぎた時刻に、屋内でこんなにも明るい場所があ
るとは。ロロは驚いていた。壁の燭台に惜しげなくろうそくが
灯されている。ロロの家で使っているものと違って、独特の臭
みも黒煙も上がらなっていない。
 ジャンはロロに奥の部屋に行くよう指示した。彼は饒舌じょうぜつで、
ロロに口を挟ませまいとしているかのようだ。うがって見てい
る自分にロロは嫌気が差す。
「きっとおふくろさんも、じきに帰って来る。気をもむこたぁ
ないさ」
「はあ」
「気を明るく持つのが肝要だぞ、そうすればいいことがある」
「……はい」
 ジャンは機嫌よく目尻を下げる。その心のこもらない声に、
心のこもらない相槌をロロは返す。
 所長のジャン自らが出迎えるのなら、自分に高値の買い主が
ついたのだろう。
 諸手を上げて喜べないのが、正直な心情だ。
「まずは旦那さまとご対面だ。いいな?」
 後ろから囁かれ、とどめを刺される。

「ご指名だ。運がよかったなぁ」
 重い足を引きずるロロに焦れたのか、ジャンは自ら奥の部屋
の扉を開け、ロロに入るようあごをしゃくった。
 応接室だった。
 買い主と対面する前に、風呂で磨かれて新しい服を一式着せ
られると聞いていた。
 まず浴室に通されると思っていたのに、そうではなかったこ
とにロロは驚き、自分の格好をあらためて見た。契約に差し支
えないか不安になる。家族のために、契約が成立しなければ困
るのだ。
 通された応接室は、金にものをいわせぜいを尽くした、と貧し
いロロにもわかる。
 壁面を埋めるサイドボードには、照明を反射する宝飾品がず
らりと並べられていた。まぶしさにロロはまばたく。その家財の真
偽や価値はわからない。はりぼてに見えて興味がわかなかった。
「さあさあ、ロロ、遠慮しないで入った入った」
 くつろぎが目的の一端にもない部屋だが、背を押すジャンに
はお似合いだ。しっくり来る。
 そんな部屋でも唯一の救いか、座り心地のよさそうな長椅子
があった。

 若い男が座っている。
 金の蓬髪ほうはつと深いみどりの目を持った男は、ロロに美しい笑顔を見
せた。
 大輪の花が咲くみたいな、華やかな容貌である。ロロはこん
なにもきれいな男を見たことがなかった。現実味のない、ぞっ
とするような気品をまとっている。
「ほら、ロロ。旦那さまにご挨拶しないか」
 焦れたジャンにつつかれ正気づくも、先にしこまれた口上が
出て来ない。
「はじめまして、ロロ」
 警戒を解くやさしい音。淀みなく流れる落ち着いた声に、か
えって身をかたくする。
 上等な服を着ているのに地味で、質素だが上品、という彼は、
この部屋でひたすら異質だ。ゴモにこんな男はいない。
「はじめまして」
 相手をどう呼ぶか――旦那さまやご主人さまあたりか。
 指名と聞いたが、はたして買い主と決まっているのか。
 背後から近づく足音に、指示を求めて振り仰ぐ。
 ジャンが最高の笑顔で見返して来る。ロロは彼が大枚を落と
す上客なのだと悟った。

「いやいや旦那さま、どうもお待たせしてしまい、あいすみま
せん。これがロロです。身なりはアレですが、風呂に使わせま
すので。ぴかぴかになれば、見違えるような顔立ちになります
よ」
「このままでかまわないよ」
 無頓着にいった男は、ロロから目を離さなかった。
 目が合う。
 まじまじ見ると、男はどことなく幼さを宿した表情で微笑ん
だ。
 ロロはうつむく。
 自分は商品であって、ここは品定めの場なのだ。屈辱的な苦
いものが胸に広がった。
「よろしいんですか? 酒肴しゅこうを用意させますし、ロロに湯を使
わせましょう」
「いいよ。決めたから」
「即決とはまた……」
「決めた」
 やわらかいが強固な口元に、ロロは首の後ろの和毛にこげが立った。
「本当によろしいんですか? このままロロに決めてしまって。
そんなにお気に召しましたか?」

 ジャンが身を乗り出して尋ねると、
「うん。気に入った」
 男は満足そうだ。
「お時間がございましたら、他の子にもお引き合わせいたしま
すよ? なんともうしますか……味見して返す、なんてことは
できませんが、お決めになってよろしいので?」
「そんなことしないよ」
 返品と味見どちらを指した発言か、あえて考えないようにし
た。
「そうですか。ならさっそく契約を、あちらのお部屋で」
 ジャンが書面の準備をしている間、ロロは呼ばれて廊下に出
た。
 世話女のマーが、通路のすみで手招く。
 引きれた傷が頬にある老婆は、老いた腕でロロを抱きしめ
た。
 ジャンの遠縁という彼女からは、いつも甘ったるいにおいが
している。
 マーはこの仕事に長く従事している。わかれの経験が多いは
ずの彼女は、なのにひんぱんに鼻をすすっては水っぽい声で話
す。

「おとなしく、旦那さまのおっしゃることに従うんだよ。さか
らったりしちゃいけないよ。にこにこして、はやく気に入られ
るようにね」
 気丈夫のその態度は、これから起こるであろう悪夢について
ロロに想像させた。やすい想像だが、怖気おじけが走るに十分だ。ロロ
は振り払おうと、つとめて明るくふるまう。
「ほんと、はやく決まってよかった」
 マーはロロの頬をなで、首肯した。
「でも……なんで俺に決まったのかな。あのひとと、一回も会
ったことないんです」
 選定する方法は、買い主の好みからジャンが推薦しての面談
か、陰から面通しして選定するか。どちらかと説明されていた。
 預かり知らぬ間に品定めは終わっていたのだ、と身ぶるいす
る。
 自身の諦念や緊張をよそに、すでに終わっていたのだ。
「さぁ、そればっかりはわからない。詳しいとこはあたしも聞
いてないけどね、あちらからお話があったようだよ。あんたに
気に入られるところがあったんだね。そういうこともあるさ。
これもご縁だよ」
 マーがロロの背を叩く。

「詮索はこれっきりにしておきな。勘ぐったって、いいこたぁ
ないからね」
「返品なんてこと……なりません、よね?」
 順調すぎる話は怖かった。
 よい面を数えようとする――ロロと弟が何年もかけて稼ぐ金
額が、これで家族のふところに入るのだ。
 父の治療費と、家族が満腹になれる量の食事があがなえる。
冬支度もぬかりなく整えられるはずだ。毛布だって新調できる。
気管を病んだ父には、ゴモ一帯の気候は冷たい。遥か西の港町
に移住するに足りるだろうか。
 自分の身上より、家族が心配だった。
「そうなったら、あたしらで違約金をふんだくってやるから安
心しな。……でもね、できるかぎり従順にしてんだよ。お気に
入りになれば、あんたの勝ちなんだから。居場所を確保しても、
安心しちゃいけないよ。お金持ちだろうから、部屋をもらえる
かもしれない。ひとりになっても、気をゆるめないようにね。
どこで誰が見てるか、わかりゃしないんだから。返されるなら
まだしも、始末されちゃあつまんないからね」
 いくらでも注意は生まれる出るようで、マーの忠告は切りが
ない。

 ジャンの呼ぶ声がして、老婆はロロから離れた。
「行っておいで」
 彼女はまだなにかいい足りない顔をしている。
「……いままで、ありがとうございました。弟たちのこと、よ
ろしくお願いします」
「任しときな」
 こぶしをにぎってこたえる老女に頭を下げ、ロロは部屋に入
る。
 ロロは買い主の男をなんと呼ぶか、まだ決められなかった。
営業に忙しいジャンの陽気な声が耳障りだが、最後だと思うと
眉をひそめるのもはばかられた。
 微笑む男の顔を正面から見る――見た目はあてにならない。
 十四歳の子供を買うようなやつが、まともな人間とは思えな
かった。
 ロロは瞑目めいもくした。
 
 §眩い屋敷
 
 男は姓を名乗らず、プール、とだけ名乗った。
 どうやらあえて名乗るつもりはないようだ。

 ロロも尋ねなかった。
 身分の高い貴族など名の通った相手なら、姓を聞けばさすが
のロロでもわかる。男は平民貴族や、成金の庶民じゃないのだ、
と男に緊張しながら往来に立った。
 ジャンの手下が、『救護の手』の裏から栗毛の馬を引いて来
る。
 ゴモの通りに、その美しい馬の姿はそぐわなかった。
 かがり火に照らされた馬の毛並みは美しく、よく世話されて
いた。馬は利発そうな目で、真っ先にプールに鼻面をこすりつ
ける。鞍も金属と革で仕上げられ、品定めする視線を周囲から
浴びているが、プールは意に介さない。
 馬にふたりで跨った。
 高くなった視界に戸惑うロロの肩に、プールはマントをかけ
る。
「しばらくかかるから、眠っているといい」
 ロロがなにかいう前に、プールの慣れた手綱さばきで馬は走
りはじめた。
 まるで風のようなはやさで、馬は疾走する。
 向かい風で、目を開けているのが辛かった。
 目で追うこともできない速度で、ゴモの景色が後方に消えて

行った。
 夜の闇と、それを照らし切れない乏しい明かり。影よりなお
暗い場所で暮らす人々。鼻につく淀んだ空気は重く、停滞して
動かない。それがロロの生まれ育った場所だった。
 買い取られたロロは、どこに行くかも知らされていない。
 呼び出されてからの展開がはやい。夢を見ているようだ。
 馬上のロロには現在の状況に真実味も現実味もわかず、いつ
ものように家族の食事を心配していた。
 馬はゴモの北門を抜けた。街道筋には賊が跋扈ばっこするとも、死
霊がさまようとも噂されている。他に道を行く人影はなかった。
 南北に延びる街道にゴモは貫かれる。
 街道を北上すると、都市ラフトに行き着くのだ。
 ――まさか、ラフトに向かっているのか。
 行く先も知らないロロは落ち着かない。だが道行きを尋ねら
れずにいた。
 荒野のただなかを通る道を行くと、頭上にかかった雲が切れ
た。星と月の光明を頼りに駆ける蹄の騒々しさに、ロロはうた
た寝のひとつもできない。
 視界にラフトを認めたときには、夜が明けようとしていた。
 周囲をぐるっと白い障壁で守られたラフトは、ゴモと対象的

な場所である。淀み暗いゴモと違い、あまりに明るく清浄に映
った。
 都市に入るのも出るのも、それぞれべつに設けられた関所を
通らなければならず、身分証が必要不可欠だった。
 ラフトでは、住むものは厳重に戸籍を管理されている。犯罪
者はもちろん、外部からの侵入者は取りしまりを受ける場所だ。
訪れた行商は、外周にある市にしか立ち入れない。
 すなわち、ラフトの住人以外は出入りが許されないのだ。
 ロロを筆頭に、ゴモの住人は身分証を持たなかった。
 偽造するしかなく、凝った手法で作成されるそれは、模倣す
るのがひたすら難しいとされていた。手本を手に入れることさ
え難しい。偽造が発覚すれば、裁かれることなく斬首ざんしゅと決まっ
ているのも手伝って、ロロのまわりで実際に偽造したり、偽造
に成功したという話は聞かない。
 ラフトは地の利に恵まれ、過去の戦争で拠点として使われた。
 張り巡らせた障壁は、そのなごりと聞いた。また近隣諸国で
唯一潤沢じゅんたくな地下水脈を持ち、水源を目的とした侵略に備えたも
のとも。
 白んでいく空の下、ロロは相変わらず馬の背で揺られていた。
 荒野に建つ障壁は物々しく、ロロは尋問を受けるさまを想像

して震えた。
 まさかラフトに入る気なのか――仰ぎ見たプールは、穏やか
な顔をするだけ。呼び方も決めかねている相手に、どう問いか
けるか迷う。
 その間にも関所が近づき、立っている表情のない兵士が、馬
上のロロたちを注視していた。
 朝焼けのなか、栗毛の馬は足を止めた。
 帯刀した兵士は感情のうかがえない目をしている。彼はプー
ルもロロも平等に一瞥いちべつした。その背に建つ青い門は絶対の拒絶
の印としてかたく閉ざされ、ロロたちをを睥睨へいげいしている。
 兵士は身分証の提示を求め、プールは無言で紙片を差し出し
た。
 身分証をあらためた兵士は、了解に顎を引き、
「開門!」
 兵士の号令に、ぎしぎしと騒々しい音を立てて門は開いた。
 なにひとつ問われることはなく、すんなりロロはラフトに入
った。
 プールに連れられた自分は、誰が見ても汚らしい格好をして
いる。ゴモの方角から未明に現れ、どうあってもラフトの住人
に見えない。なのに質疑もなく簡単に通れるなんて、とロロは

驚いていた。
 ロロの身分証を事前に用意できるなら――彼がそれなりの地
位にいる証立あかしだてだった。用意することができないなら、やはり
身分証のないロロを通過させるに足るなにかを、この男は持っ
ている。
 不正を不正としないだけの、金と人脈、地位に恵まれた人間
か。
 見上げると深緑の瞳がロロを見返した。品定めするように男
の地位を詮索した自覚で、気まずくなって目を逸らす。
 はじめて見るラフトは美しかった。
 三年ほど前、ロロは出稼ぎの帰路、盗みに入れないか、と侵
入を試みたことがある。
 障壁の下にトンネルを掘れば、なんとかなるのではないか。
 友人たちと浅はかな計画を立て、見事に失敗した。警備兵が
定期的に巡回していたのか、壁の外で汚い子供たちが群がって
いるのを見つけて飛んで来たのだ――まだどこを掘るか、決め
てもいなかった。
 子供でも容赦する話を聞いたことはなく、よく無事に逃げ切
れたといまでも思う。ラフトに侵入しようとしたロロを、後に
すごいすごいと弟がほめそやしたものだ。

 ようやく目にしたラフトは、ゴモと格差がありすぎた。
 馬が駆ける石畳の道は朝日を受けてなお白く、ちりひとつな
い。
 プールは手綱をゆるめた。朝の街並みに蹄の音が軽快に響く。
まばらに道を行く顔が、蹄に振り返った。ロロに見咎めるよう
な視線をよこすが、プールが笑顔で手を振ると誰もが微笑み返
し、ロロのことなどもう気に留めなかった。
 通りには色とりどりの看板をかかげた商店と、民家らしい建
物が混在している。
 一軒たりとも傾いだ家屋はなく、煤けた外壁もひとつとして
ない。清掃され暖かい色で統一された街並みは、ロロにはつく
りものめいて映った。
 都市を囲む障壁は遠くにそびえて、ラフトを護っている。巨
大な都市だと知っていたが、実はわかっていなかった。馬が駆
けても駆けても、遠方の白壁が近づくように思えない。しかし
どこにいても白い壁は目に入る。護っているようで、閉じこめ
られているのだとロロは感じていた。
 広場の一角では、出立を待つ辻馬車の御者たちが簡易テーブ
ルで弁当を広げていた。薄着で、武器を隠した様子がない。安
全なのだ。護身用に武器を隠すこともなく、牽制としてわざわ

ざ武器を見せて歩く必要もない。
 整えられた植えこみや、一列に立ち並ぶ木々ののびやかさは
瑞々しいばかりだ。
 ラフトはどこもかしこも磨かれ、住人の暮らし向きを推し量
るのは容易である。生きることに必要のないものにかけられた
労力に、ロロは眉をひそめていた。
 早朝に行き交う人々の顔は、活気にあふれていた。露天商ら
は働く準備に余念なく、活き活きした表情はゴモでは見かけた
ことのないものだった。
 目にするものすべてが、あまりに自分の暮らした環境とかけ
離れ、ロロは胸を突かれた気分だった。
 彼らが何不自由なく暮らしているように取れた。全員がちゃ
んとした服を着ていて、金持ちに見える。
 妬ましさや怒りを、ゴモから遠くに見た白い障壁に覚えてい
た――いまラフトに入ってロロの胸に訪れたのは、さみしさと
哀しさという、これまで疎遠そえんだった感情だ。
 もう妬みも怒りもない遠方に来てしまった。
 あちらに戻ることは恐らくない――ロロはやっと最初の実感
を得た。
 ロロは無意識に身を縮めた。

 肩にかかったマントの上から、プールは勇気づけるようにロ
ロを軽く抱きしめる。ロロは身体をかたくした。
「すぐに着くから」
 プールの囁きは、馬の蹄の音にかき消されることなくロロの
耳に届いた。
 馬は高い塀の路地を抜けた。そうすると唐突に道がひらけ、
邸宅が居並ぶ圧巻な眺めが広がった。
 人気がなく、ロロはマントの下からきょときょとあたりをう
かがった。
 贅を凝らした造りの邸宅が肩を並べている。生活の差がそこ
にはあった。ゴモとは違う、見せつけられた差にロロは威圧感
を感じた。ロロにすれば、楽しい景色ではない。
 真正の金持ちだ――ロロは胸中でつぶやいた。
 馬は広大な屋敷の裏にまわった。
 と、強い風が吹き、大粒の砂が飛んで目に入った。うめいて
ロロは両目をこする。風には甘い食物の香りが混じっていた。
腹が低く鳴る。蹄に比べれば微細な音なのに、聞かれなかった
かあわてて馬上の男を見た。
「ここだ、着いたよ」
 馬は屋敷の敷地に入ると速度を落とした。マントの下でちい

さくしていた背中を、ロロはのばす。
「おかえりなさい!」
 明るい声がして、ロロはそちらを見た。
 ロロよりわずかに年上と見られる、さっぱりした姿の少年が
いた。
 屋敷の庭で仕事中だったか、大振りの剪定せんていはさみを提げてい
る。物騒に見えないのは、ラフトの平穏な空気のせいだろう。

 花が風にかすかに揺れている。見知らぬ花が多い。これから
寒くなる季節とは信じられない、艶やかな光景である。
「おつかれさまです」
 馬を引き受けに、はさみを置いた少年が駆け寄って来た。体
重を感じさせない、軽やかな動きだ。
 自分にもこの屋敷であんなふうに動く日が来るのか――彼は
屋敷に打ち解けなじんでいる。まさしくこの屋敷の住人だ。
 ロロは不安を飲みこんだ。
 地面に降りても、遠乗りしていたせいか足下が揺れている気
がする。
 少年の黒いしなやかな髪を見て、ロロはマントを取るのを止
めた――汚れた身なりをさらすのに抵抗を感じた。

 ジャンのようなやくざでもない限り、ゴモの住人は継ぎのな
い服はあがなえない。おなじ大地に立つラフトの住人は、下働
きであろう少年でさえ継ぎのない服を着る。
 ロロの胸の奥がざわめくのを聞いた。ラフトに対する意識同
様に、貧富の差を頭で意識していただけで、これまで本当には
知らずにいたのだ。ゴモと違い汚れ仕事に足を突っこまなくて
も、ラフトならまっとう暮らしができる。
「頼んだよ」
 プールから馬を引き受け、少年はあごを引いた。
 ロロを向いた少年の目がほそめられた。少年の顔が笑顔のか
たちになる。剥いた歯は白く、やけにとがっていた。ロロの背
を、得体の知れないひやりとしたものがなでていった。
「それじゃあ」
 馬を引いた少年が、去り際小さく手を振る。微笑んでいるが
どこか緊張した彼に、ロロもまた緊張して手を振り返した。
 
 
 屋敷に入るまで、また道のりが長かった。
 清楚な庭園を過ぎ、白い玄関ポーチを通る。
 ――ここに自分はそぐなわい。場違いだ。

 ロロはせわしない瞬きをくり返していた。生まれ育ったゴモ
と、あまりに違いすぎている。居心地は悪く、血の気が引いた
ような感覚がずっとロロを捕らえて放さない。
 足を踏み入れた邸内は、『救護の手』のようなごみごみした
装飾でなく、使いこまれた、どこかくたびれている調度が並ん
でいた。ひとの暮らす痕跡が見て取れて、ロロはなんだかほっ
とする。
 すっきりとしたたたずまいに好感を持ち、ロロはぐるりと見
回した。
 金持ちの家だ――しかし『救護の手』なんかよりずっといい。
 だが暮らすとなると、溶けこめる自信がわかない。
 窓から目視できる敷地は、さんさんと降る太陽の光を浴びて
いた。警戒や不審をとかすのどかな景色で、人影がないためか
一枚の絵に見えた。
「風呂に案内させるね。クローゼットがあるから、好きなもの
を着なさい。……男の格好でも、女の格好でも」
 はっとしてロロは顔を上げ、するとプールと視線がかち合っ
た。
 ロロは居心地の悪さに視線を落とした。
 ゴモで生まれる子供は、全員男だといわれる。

 ロロの兄弟も全員男だ。本人が望むまでは、たとえ女でも男
として生活する。幼児期に誘拐され、ひと買いの手に渡るのを
少しでも防ごう、というせめてもの親心である。自ら身売りせ
ざるを得ない事態に陥る子供がいるのは、皮肉な現実だ。
「……旦那さまは、どちらの方がお好みですか」
 つっかえもせず口から滑り落ちた台詞に、ロロ自身驚いてい
た。
 間を置かず、呵々かかとプールは笑う。
「信じられないだろうけど、きみといかがわしいことをするつ
もりはないんだ」
 
(※ 本編に続く)








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