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『いつもの夕餉』(日野裕太郎・おおぬまひろし)

【ホラー短編】
いつからか、鞄の中に、シャツにつきまとう長い黒髪。
男の一人暮らし、司に彼女はいない。
なのに長い髪はどこからまぎれ込むのか。
さらに職場の仲間との飲み会で、同僚の女性が口から大量の黒髪を粘液と共に吐き出してしまう。

いつしか日常が狂っていた!?

衝撃のラスト!ホラー短編。
第4回「幽」怪談文学賞 短編部門 最終選考作品

文庫 約26ページ(1ページ 39字詰め 18行)

その一瞬に、奈央の両目が見開かれ、涙がわきこぼれた。
暗い室内だが、それでもわかった。
奈央は吐いた――ぬめる粘液に包まれた、大量の髪の毛を彼女は座布団に吐き出した

【サンプル】

 一 ひとすじの長い黒髪
 
 つい湯船でうとうとしてしまった。
 ぬるくなった湯船から上がると、腰のあたりに違和感を感じ
た。
 身をよじって見ると、髪の毛がついている。
 つまみ上げる――長い髪の毛だ。しなやかな漆黒。
「またか」
 排水溝に髪を落とし、司は風呂場を後にした。
 ひさしぶりに定時退社できたため、時間を気にせずぬるい湯
船で長湯した。風呂上がりの身体をぬぐいながら目を上げると、
時刻はまだ十一時をまわったところだった。身体が芯まで温ま
った司は、その晩心地よい眠りを愉しんだ。
 翌朝には目覚まし時計が鳴るまえに目が覚めた。
 最近仕事が忙しく、倦怠感が抜けなかった。しかし湯船での
んびりして熟睡したためか、今朝は身体が軽い。機嫌よくトイ
レのドアを開けると、閉じた便座に長い髪の毛が一本落ちてい
た。
 つまんで便器に落とし、用を足した。
 ナップザックにこまかい荷物を入れて、身支度をする。

 毎朝支度をしながら、子供のころ母に前日に支度をすませて
おくよういわれ続けたことを思い出す。思わず苦笑した。
 ナップザックのチャックを閉めようとしたとき、ふとなかに
黒く長い毛が見えた。つまんでゴミ箱に入れる。
 司の職場は、自宅から自転車通勤で三十分の距離にある。秋
口の早朝、涼やかな空気のなか行うサイクリングは快適だった。
 勤める会社は輸入雑貨を扱う小さな会社で、インターネット
での通販が主となっている。社内はオフィスというより倉庫に
近い。
 社員は社長以外は全員――といっても五人だが、同年代で二
十代後半だ。来年司は三十路になる。社長以下では最年長であ
る。
 現在社員の内二名は、社長の雑貨の買いつけに着いて行って
海外出張中だ。そのため開けたドアの向こうは閑散として感じ
られる。
「ツカさん、おはようございます」
 声をかけてきた西野奈央から、紙の束を受け取る。
 彼女の茶色のロングパーマが揺れると、合間から甘いかおり
が漂う。使用を控えるようにいった香水のにおいが、強く鼻に
ついた。

 スタッフで受注商品の梱包・発送まで行うため、大量の香水
を使うのはクレームの原因になりうる。現に届いた商品を開封
したら、香水のようなにおいがした、という顧客からの電話が
あったばかりだ。
 他のスタッフが影でいうには、梱包作業をする気がないから
香水を使っているのだそうだ。
 注意しようとすると、勘がいいのか奈央はさっさと逃げ出す。
 一度社長から強くいってもらった方がいい、と思いながら、
司はファックスの束をたぐる。内容を確認しながら給湯室に足
を向けた。
 飲みものは各自が用意する決まりだ。
 カップになみなみ入れたコーヒーをこぼさないようにしなが
ら、スタッフに割り振る仕事を考えながら席に戻った。
 スタッフのひとり、加納信也も出社していて、奈央とふたり
で何故か司のデスクを囲んでいた。
 奈央が怒ったような顔をしている。
「なに、どうかした?」
「ツカさん、これなんすか」
 加納がにやにや笑う――つまんで見せたのは、長い黒髪。
「彼女すか? いいなぁ、どこで見つけたんすか? 俺にも出

会いの場を提供してくださいよ」
 わざとらしく身体をくねらせて、加納がいう。
「違う違う、そんなんじゃないよ」
 手を振って笑い否定するが、加納も奈央も信じる様子がなか
った。
「それ、どこに?」
 スタッフに黒い長髪のものはいない。出入りの宅配業者など
にも、該当するものはいなかった。司自体、五分刈りだ。
「ツカさんのリュックのほら、ここ、チャックから出てました。
いいなぁ、彼女お泊まりすか?」
 司はこういった揶揄が苦手だった。
 にやにや笑う加納の顔に、正面から拳を当てる真似をする。
いくら否定の言葉を並べてみても、説得力がないのか後輩社員
たちは信じるそぶりもない。
 奈央の眉が奇妙なかたちに歪んでいる。それもそのはず、彼
女は他人の恋愛話が嫌いだった。
「隠したがるってことは、ナンパした子ですか?」
 ひどく乱暴な声音に、加納が鼻白んだ。
「ナンパとは限んないって。べつに彼女くらいできても……」
「こんな会社で出会いなんて、ナンパくらいじゃないですか―

―むかつく。最低」
 なんの因果か、真っ向から罵声を浴びせられた。そこに始業
の時報が鳴り、司はふたりに仕事しろ、とファックスの束を適
当に押しつける。
 奈央はまだなにかいいたげにしている。しかし始業と同時に
受けつけ状態になった電話回線が、無駄話を許さない。
 電話を取り仕事に没頭する間に、司は後輩たちのいいがかり
も忘れた。休憩時間にも退社時間にも、後輩たちはその件を蒸
し返す真似をしなかった。
 就業時間を過ぎ、その日の残業はほどよく一時間だけだった。
ほかのメンバーは退社し、ひとりで戸締まりをした。
 司が自転車置き場に向かってみると、奈央が立っていた。
 声をかけようとしたが、じっとり深刻そうな目を向けられた。
司は言葉を詰まらせる。
 会社を辞める気かな――司はふとそういう話だろうか、と推
測した。
「どうした? 忘れもの?」
 奈央は逡巡した。
「あの……これから、ちょっと晩ご飯がてら呑みに行きません
か?」

 退社の相談だな――内心確信し、司は肩をすくめた。自転車
通勤のため、飲酒はしたくない。財布の中身も軽い。社内の風
潮で、酒の席で目下のものが支払うのは悪事とされている。
「急にどうしたの?」
 なにげないふうを装いながら、司は自転車を一瞥した。
「その、ちょっと……聞いてもらいたいことがあって……」
 奈央と昼食を摂ったりしている女子社員は、あいにく社長と
出張中だ――自分にお鉢がまわって来たことを不運に思った。

「明日じゃ駄目かな?」
「今日だと駄目ですか?」
 むっとした声を出すかと思いきや、奈央は甘えた声を出した。
彼女の内情は切羽詰まってるのか、と気持ちが引いた。
「明日でよければ、自転車置いて来るから。そんなに急ぐ話?」
 いいながら、意地の悪いいい方をしている、と自己嫌悪を感
じた。
 街灯の下、奈央は司と自転車を見た。これまでに何度か加納
が唐突に呑もうと提案し、自転車を理由に断ったことがあった。
奈央もその場にいたから、覚えがあるはずだった。
「今日の方がいいなら、会社戻って話そうか」

 きびすを返そうとすると、奈央が口を開く。
「あの、明日、駅前で呑みましょうよ」
「そう?」
 会社でさっさと話を済ませられるなら、それに越したことは
ない。が、あらためて呑もうといわれて、長話になるのかと司
はため息をつきそうになった。
 月末近くの飲み会はきついな、と自宅に置いてある銀行の銘
入り封筒の、その中身を思い起こす。
「じゃあ、明日。お疲れさま」
 奈央はもごもごとはっきりしない返事をした。
 背中に視線を感じつつも、司は振り返らず自転車をこぐ。
 司のアパートは電車通勤に適せず、車の交通量が多い幹線道
路を走って通っている。酔うと怖い道だった。飲酒すればタク
シーで帰宅せざるを得ないため、念のため銀行から多少でも下
ろしておいた方がいいか。つらつらそんなことを考えた。
 考えながら、奈央に悪いことをした、と自分が思っているこ
とに気がついた。
 退社なり悩みなり、聞いてほしいと訴えるのをはねつけた―
―引き延ばしてしまった。でも一日だけだし、自転車だし、お
ごってやるからさぁ――心中で延々いい訳をしてしまう。

 気が小さい、と自嘲しながら帰宅した。気の休まるはずの部
屋を、なんだか寒々しく感じた。
 冷凍飯と冷凍カレーで晩飯にしよう、とここ最近続いている
献立に、空腹なのにあまり食欲がふるわない。
 会社で先達て使っていた、家庭用にしては大きな冷凍庫を開
ける。不要品だから、と押しつけられたものだったが、あれば
あったで使い出がある。
 冷たい飯を入れようと開けた電子レンジのなか、長い髪の毛
が一本あった。
 
 二 冷凍庫
 
 給湯室でココアを飲んでいる加納を見て、司は彼がクーポン
券好きだった、と思い出した。
「加納、駅前の居酒屋のクーポンって持ってる?」
「なんすか? 何軒かありますけど」
 話してもいいかなかまわないかな、べつにかまわないよな、
就業を待ってわざわざ外で話しかけて来てたけど、加納にいっ
てもいいよな――ちらりと後ろめたく思いながら、司は奈央と
呑みに出る、と切り出した。あわよくば、加納を同行させる方

向に持っていけないかと考えていた。
 気をまわすまでもなく、加納は乗り気になった。
「いいっすねぇ、三人っすよね、飲み放題にできるかもしれな
いですよ」
 加納は最初から三人で、という流れだったかのように、どの
店に行くか思案をはじめた。奈央の声がフロアから聞こえて、
加納が飛び出して行く――今日の飲み会どこ行こっか、とはず
んだ声が聞こえた。返す奈央の声は怒りをはらんでいるが、加
納は気にも留めていない。
 耳をそばだてながら、司は始業の時報がフロアから聞こえる
のを待った。
 
 
 個室が売りの居酒屋で、奈央は入店するまえから怒った顔を
していた。
 加納と並んで司は腰を下ろした。彼女が全面に出す怒気を、
加納は意に介した様子がない。敬意を払いたいくらいだ。
 店内は和風のインテリアが並び、照明は落としてある。しか
しメニューは洋風の料理ばかりで、店のコンセプトがいまいち
わからない。

 奈央に料理選びを任せると、次第に彼女の機嫌のとげはまる
くなっていった。おいしそう、どうしようかな、とつぶやく。

 わざわざ誘ってきた奈央の話とは、いったいなんなのか。
 ただの飲み会と思っている加納が、おしぼりで鼻の下をこす
りながら口を開く。
「社長たち、はやく帰って来るといいっすね。新しい商品入れ
てくるんでしょ?」
 司は奈央の顔をうかがった。
 彼女はメニューから顔も上げない。
「扱えるかどうかは、またべつの話じゃない? 帰って来たら、
いやでも仕入れとか旅行の話聞かされるわよ。ね、店員さん呼
んで」
 一通り注文し、料理が出揃うころには、加納と奈央がひとし
きり仕事の愚痴をぶちまけていた。
 取引先の人間の横柄な態度、顧客の我を通そうとするときの
無理な理論展開、小さなミスが驚くほど先に響くこと。
 口ぶりを聞いていると、奈央に退社の思惑はなさそうだった。
 運ばれる料理をつつきながら、まくし立てるような一方的な
会話に相づちを打つ。

 名ばかりだが、一応司は管理職に当たる。奈央が退社するつ
もりなら、円満に話を運びたい。寿退社ならいいが、ベンチャ
ー企業に勤める身としては、些細なもめごとも起きてほしくな
かった。気分屋の社長に、わずかでもマイナスカウントになる
材料を与えたくない。いまの仕事は気に入っている。
 酒気も手伝って、あくびがこみ上げた。かみ殺しながら、司
はハイボールをあおる。
 加納が楽しげな声を上げた。
「ツカさん、またっすか」
 なにが、と問うより先に、加納の指が司の襟足の方に向かう。
「ほら、これ――」
 見なくても、首筋に感じたものに、彼の示そうとするそれが
なにかわかった。
 ずり、と肌を這う感触。
「髪の毛、ほんとしょっちゅうっすね」
 彼女ですか、と加納が続けた。返答に窮してそらした視線の
先では、奈央が不愉快さを露わにした顔をしていた。
 女は恋愛話が好きだろうに、変わった子だなと思いながら、
加納の方を向く。
「彼女なんかいないよ。そんな暇ないよ。うちに帰って飯食っ

て、風呂入るくらいだ」
「自炊派っすか? 昼、外食してるじゃないすか」
「弁当持って来たら、まえにリュックのなかでひっくり返って
たことあるんだよ。懲りて、もう持って来てないなぁ」
「そういえば、一年前くらいでしたっけ。ツカさん、会社で冷
凍庫もらってたじゃないですか」
 いいながら奈央は箸を置いた。
「ああ、使ってるよ。うちに置くスペースあってよかったよ」
「じつはあれ、あたしとか狙ってたんですよ。あれば便利だよ
ね、って話してて。お弁当のおかず、冷凍しておくと便利なん
ですよ」
「そうなの? それならそうといってくれよ。俺より、女の子
の方が使いこなせるに決まってるじゃん」
 話に入った奈央の声は平時のもので、すこしばかりほっとす
る。
「ちゃんと使ってます?」
「うん、カレーなんかまとめてつくっておけるから便利だよ」
 追加の料理が運ばれ、上機嫌に戻った奈央と加納が旺盛な食
欲を見せた。
 一緒に箸をつけながら、司は帰りにスーパーに寄ろう、と考

える。
 冷凍庫のカレーがもうじき終わるのだ。気がついたときに追
加してつくっておけば、後々楽だ。
 そのときどきに、やるべきことはやっておいた方がいい。
「あんま食べないっすね」
「そうか? 食べてるよ」
「彼女の心配ですか」
 箸をくわえた加納がにやりと笑う。つられて司は声を上げて
笑った。
「しつこいなぁ。いないって」
「だって、ツカさん髪の毛出て来すぎですよ」
 そうですよ、と追従した低い声は奈央だった。
 ふいに席に沈黙が訪れた。
 席の外、酒宴の愉しい声がかすかに聞こえる。嬌声に似た声
を耳に、司は忙しない瞬きをくり返した。
「彼女がいるなら、素直にそういえばいいじゃないですか」
 奈央が続けてなにかいったが、それは聞き取れなかった。
 手元のグラスをあおると、加納が焼酎のボトルを注文する。
 店員がボトルセットを持って来るまでの間、奈央は視線をテ
ーブルに落としていた。じっとりと重い空気をまとった陰気さ

は、彼女が泣いていないのが不思議なほどである。
「どぞ」
 加納が全員に焼酎のお湯割りを配った。
 受け取って、司はあおる。心底加納を誘ってよかったと考え
ていた。
 司は酒に強い方ではない。目を閉じるとぐらりと身体の揺れ
る感覚を覚えた。
 加納がさっき髪の毛を引っ張り出したときの、独特の感触が
よみがえった。
「最近、多くなってるんだけどな」
 司はそう切り出した。
 
 三 嫉妬する気持ち
 
 ときどきあることだ。
 自宅に限ったことではない。
 部屋のカーペットに、長い髪が落ちているのを見つける。荷
物の間から、長い髪の毛が出てくる。ひとに衣類についた長い
髪の毛を指摘される。
 実際、現在司に交際している女性はいない。

 現在住まうアパートに引っ越して、二年になる。
 司はこころのなかで指折り数える――仕事一辺倒の生活にな
ってひさしく、ここ一年ほどは自分以外は誰も家に上がってい
ない。
 鍵を預けてあるのは、遠方の実家と大家だ。彼らが鍵を使っ
て侵入しているとは考えにくい。以前おなじ部屋に住んでいた
住人が、いまだに鍵を持っていて忍びこんでいる――それは滑
稽な考えで、妄想に近い。盗られたもの、移動しているふうに
見えるものもないのだ。
 異常といえば、見つかる長い髪の毛のみだ。
 口をつくまま話しても、後輩たちはぽかん、とするだけだっ
た。
 嘘ではないが荒唐無稽である、と自覚する司は苦笑した。
「まあ、気がついたら、髪の毛がくっついてるだけなんだけど
ね」
 手元のグラスが空だと気がついた加納が、無言で追加のお湯
割りをつくる。
「……おかしい、ですよ。それ」
 瞬きを忘れたようになった奈央がつぶやく。
「おかしいかな」

「髪の毛が出てくるのって……気味、悪いですよね」
「ゴミ箱に捨てれば、それですむよ。髪の毛なんて、誰にでも
生えてるじゃん」
「そういうことじゃないです!」
 大声を上げる奈央に驚かされたのか、一瞬店内が静まりかえ
った。衝立や壁の向こう、息を殺す空気を感じた。
 ややあって、店はもとのさざめくような、聞き取れない会話
が流れ満ちていった。
「だって……それって、なんか変じゃないですか……」
「まあ、うん」
 それはわかっているよ、と返そうとしたが、司はやめておい
た。奈央にそういったところで、どうにもならない。
「ツカさん、体調なんかはどうなんすか? 具合悪いとか」
「なんで? ここのところ忙しいし、そりゃ疲れてるよ。だけ
ど食欲もあるから、心配するほどじゃないと思うし」
「……お祓い、しませんか」
 戦々恐々といったふうの奈央の声に、司は思わず笑ってしま
った。
「ツカさん、髪の毛だけですまなくなったらどうするんですか
? 笑いごとじゃないですよ? だって髪の毛って……会社で

見た、アレでしょ? さっきだって、服から出て来たじゃない
ですか」
「そっすよ! うわ、俺何回か触っちゃってるし――だいじょ
うぶかなぁ。さっきの、どこ落としたっけ?」
 泣きそうな声で加納が手をぶんぶん振る。しぼられた照明の
下、もう先ほどの髪の毛は見つからない。
「加納くんなんか、どうだっていいわよ! ツカさん神社でも
お寺でも、すぐ行こ? あたし、一緒に行くから」
 大げさだ、と司は笑った。
「お祓いだなんて、そんな」
「おかしいですよ、髪の毛がわいて出るなんて。なにかオバケ
とか……見たり、金縛りにあったりなんてことは?」
「朝までぐっすりだよ」
 嘘ではない。
 だが加納と奈央は、口をそろえてお祓いしろ、と連呼する。
「まあ、厄年が来たら……お祓いしてもらうよ」
「次の厄年って……そんなの、四十越えないと来ないっすよ?
 そのまえに幽霊に殺されたら、どうすんすか」
「そんなふうに考えたら、なんでもかんでもそう思うようにな
らない?」

「じゃあ、原因! ツカさん、髪の毛っていつぐらいから?」
「ええ? いつかなぁ」
 心配してくれるのはありがたい。だがお祓い云々を受ける意
思のない司には、もうこの話題がうっとうしくなっている。話
をはぐらかして逃げたいが、真剣なまなざしの後輩ふたりは、
じっと司を見つめていた。
「いつごろから、だったんですか」
 まっすぐ司の目を見た奈央が、ゆっくり尋ねた。
 気圧されて、司はしぶしぶ考える。話さなければよかった、
と後悔しはじめていた。
「……正月……かな? そのまえ……かな?」
「正月? そのころに、なんかなかったんすか? あの髪の毛
って、女のものっぽいっすよね」
「そういわれてもなぁ。暮れに実家帰って、姪っ子の子守して
……」
「姪って? いくつ?」
「三歳。かわいいよ、写真見る? 携帯で撮ったのあるよ」
 奈央が般若みたいな顔をした。
「そんなのあと! 田舎帰ったとき、変なとこ行かなかった?
 心霊スポットとか、そんなの」

「墓参りなら行ったけど。そんなの、帰省したら毎回行くしな
ぁ」
 根掘り葉掘り問い質される――はて、そもそもなんの飲み会
だったか、と司が思ったとき、店員がラストオーダーを訊きに
来た。
 すかさずデザートを注文した奈央が、
「今日――あたし、ツカさんち行く」
「なにいってんすか!?」
 加納は切り返すが、司はびっくりして声が出なかった。
「だって、女の幽霊だったら、あたしがいれば彼女できたって
思うかもしれないじゃない。そしたら、あきらめるかもしれな
いでしょ?」
「うち、お客さん用の布団なんてないよ。せまいし」
「ツカさん、そういう問題じゃないっすよ」
 奈央が絶対に行く、といって泣きはじめた。
「心配だもん……」
「そうはいうけど、男の家にかんたんに上がっちゃ駄目だ。ま
だ電車だってあるから、帰らないと」
「俺、トイレ行ってきます」
 そそくさと先を立った加納の背を、司はため息をつきながら

見送る。
「なんだったら、近いうちにお祓いも受けるから」
 せまい会社だ。なにも起きなくても、彼女を泊めたりすれば
加納から簡単にもれる。なにより司は、簡単に髪の毛の話をし
てしまったことを、心底後悔している。
「心配してくれるのは嬉しいけど、ほら、今日だって話あるっ
ていってたのに、肝心の話できないままだろ? またしきり直
して、今度呑み直そう」
 奈央は首を振る。甘いかおりが漂って、なんとなく一瞬息を
止めた。
「だって……ツカさんのこと……」
「ひとのこと心配してばっかりだと、はげるぞ」
 空々しく笑うと、奈央が涙をぬぐいながら顔を上げた。
「つまんない……そのギャグ」
「悪かったな」
「あたし、今日話しようと思ってたのって」
「うん?」
「あたし……ツカさんに彼女がいるのか、それが知りたかった
の」
 なんで、と頭のなかで訊いていた。

 奈央が上目遣いになった。
 ぞわり、と司は鳥肌が立つ――彼女が本来話そうとした、そ
の内容を悟った。
 悟ってしまうと、彼女の言動で奇妙に見えたものが腑に落ち
た。
 あれは好意の表れで、むき出しのものだ。気がつかなかった
自分がどうかしていると思うくらい、わかりやすい好意。
「この後、ツカさんの部屋……行ったら」
 言葉が止まった。
 口元に手をやり、奈央は眉間にしわを寄せた。
 飲み屋ではなじみのある表情だ。
「気分悪いか」
 背をさするかどうするか、瞬時の判断ができなかった。
 おしぼり、お冷や、店員に声をかける、手洗いに連れて行く
――どうしよう、と考える。
 その一瞬に、奈央の両目が見開かれ、涙がわきこぼれた。
 暗い室内だが、それでもわかった。
 
 
 奈央は吐いた――ぬめる粘液に包まれた、大量の髪の毛を彼

女は座布団に吐き出した。
 
(※本編に続く)

















同人誌

»「下町飲酒会駄文支部」

「下町飲酒会駄文支部」というサークルで、コミケ、コミティア、文学フリマなどに参加しています。

...ほか、既刊多数あります。

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