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『水にひかれて』(日野裕太郎)

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【ファンタジー中編】

剣も呪文もない土着系ファンタジー「手業の民の物語」シリーズ。

青年コイトの歯が突然抜け落ちはじめ、途方に暮れるなか祈祷師ウマサが「仕事を手伝え」と声をかけてきた。
彼はなにか知っているようで、じわりと水が沁みるように、いつも通りのうっすらした笑みを湛えていた。

文庫 約65ページ(1ページ 39字詰め 18行)

──もう、歯はいらないだろう。
──もう、ひとの食いものはいらないだろうから。
「思い当たるんだね。さっき川で……なにか受け取れたかな」
コイトの色を読んだのだろう、ウマサは慎重な声を出した。
「祭壇はここだけど、いまは水霊はあっちでも祀ってるんだよ。水場の方が、落ち着いてもらいやすいから。今日はまだ猶予があるか、ちゃんと確認したくて。でもきみ、すぐもどしてただろ? こりゃなにか接触されたな、って」
川の囲いのなかにいるのは、水霊そのものなのか。
「どういうことなんだ、いったい」
ウマサは軽く首を振った。
「きみが祀らないでいるから、召し上げようとしてるんだと思う」
「は?」
「連れて行こうとしてる」
「それは」
 死ぬと、殺されるというのは確実なことなのか。
 揺れる歯を舌先で押すと、大きくかしいだ。コイトは先を考えてみた。自分の先見はうまくできないのだ。訪れないし、読めない。だから考える。予想する。

【サンプル】

 うまく隠れていたつもりだったのだが、ひとの口から出てき
て驚かされる。
「墓場に死霊が出るなんて話、冗談でも聞きたくなかったわ」
 ため息交じりのその声の続きは、コイトが井戸から引き上げ
た桶の水音でかき消えた。ざばりと汲んだ水の飛沫はとても冷
たい。
 続きをくわしく聞きたくてたまらなかったが、コイトはそそ
くさとその場をあとにする。仕事の手を休めて雑談に興じるお
かみたちに混じるほど親交はなく、そこにわざわざ入っていく
のはどうにも気乗りしない。
 それでもいくつか耳に入ったことがある。
 ──たまたま夜に墓場の見える道を通ったものがいたそうだ。
 そしてなにかが墓場にいるのを目撃したのだという。
 すでにそれはちまたで死霊と呼ばれているようで、おかみた
ちは本格的な憂い顔をしていた。
 彼女らの口にのぼるようになっているのだ、すでに村の祈祷
師のところに話はいっているだろう。
 勝手に深いため息がこぼれ出ていた。
 それは墓場でひとり酒盛りをしていた自分だなどと、誰も思
いもしないだろう。

 汲んできた水を台所に置き、椅子に腰を下ろすとコイトは頭
を抱えた。
 平原の只中、ぽとりと落ちた鳥のふんのような村で、コイト
は生まれ暮らしている。
 いびつに広がっているちいさな村だ。飛び抜けて大きな建物
は、村長の家くらいのもの。点々と家が建ち、ほかは畑ばかり
の静かな場所である。
 そして村の人間は、全員が顔見知りといっていい。どこに行
っても顔を合わせるのは知己であり、誰の姿もないと思ったと
ころで、誰かの目がある気の休まらない側面のある土地だ。
 墓場での酒盛りは、最近のコイトの楽しみであり息抜きだっ
た。さすがに夜の墓地ならそうそう人目につかないだろう、と
高をくくっていたが、あっさり発覚していたのだ。コイトは肩
を落としていた。
 明かりを持ちこんだことが失敗だったかもしれない。墓場に
赴く際にいつも携えているランプは、いまも台所の片隅にある。
 ランプを前に、コイトは思案する。
 しばらく墓場に足を向けるのは避けた方がいい。通りかかっ
たものがもうちょっと近くに寄っていたら、そこにいるのがコ
イトだとわかっていただろう。

 そんなことになっていたら、コイトが正気を失ったという噂
が瞬く間に広まっていたはずだ。
 死霊云々という、いまある噂が悪い方向に転がったりしたら、
親や親類、村の祈祷師であるウマサに迷惑をかけることになり
かねない。むしろ先に、死霊でもなんでもなくたまたま自分が
いただけだ、と報告した方がいいだろうか。
 ぐだぐだと考えるうちに腹が鳴り、口をもぐもぐと動かした
ところ、コイトの口のなかで歯が揺れた。
 舌先でそっとなぞってみたが、歯にはなにごとも起こらなか
った。
 今度は舌先に力をこめてみる。
 歯がかしいだ気がして、ひやりとした。
 まさか抜けるのか。不安に眉をしかめ、ほおの上から手を当
てる。
 歯は抜けたらおしまいだ。
 とっくに乳歯は抜け、齢二十歳のコイトの歯はすべておとな
のものである。
 手のひらで包むようにしたそこに、なんら痛みはなかった。
しかし歯が揺れたとなると、原因を求めてしまう。
 うっかりどこかでぶつけたか、かたいものでも噛んだか、寝

ている間にぶつけでもしたか。思い浮かんだものは、いずれも
痛みをともなってしかるべきものだ。
 歯の揺れを再確認するのもなんだか怖くて、コイトは昼食に
やわらかい粥をつくった。
 口に運びながらも、コイトは緊張する。
 甘いかおりの粥をすすり、歯に痛みが出たら、と食事中気を
揉んでいた。
 しかし歯に痛みは起こらず、思い起こしてみたところで、と
くに顔をぶつけたりした記憶はなかった。
 食器を洗うころには、歯が揺れたこと自体を忘れてしまって
いた。
 再度コイトが歯のことに意識を向けたのは、二日後だ。
 揺れていたくだんの歯が、唐突に抜けた。
 
        ●
 
 ぽつりと歯が抜け落ちて、思わず目を見開く。
 だが痛みがないためか、見開いた目をまた元通りほそめてい
た。
 いざ抜けてみると、案外冷静なものだ。まったく痛くないか

らかもしれない。
 わずかに血でぬめっている歯茎を舌先でなぞるうちに、また
一本歯が口のなかで揺れはじめた。
 昼食の支度の最中だ。
 鍋では湯が沸いて、表面が波打ちはじめている。とりあえず、
と切り分けてあった肉を放りこむ。赤い肉がさっと白い膜をま
とったようになった。
 湯に沈む肉を見届けたコイトは、刻んだ野菜をひとまず置い
ておき、片手に吐き出していた歯に目を戻した。
 歯の根の部分には、赤いものが付着している。
 右の奥歯に近い歯だ。
 それにしても、これはなにごとか。
 考えながらも、あらたに揺れはじめた気のする歯を舌先でつ
ついていた。そうしてみると、確実にその歯も揺れている。ま
さかこれも抜けるのか。胸に冷たいものが広がり、それと同時
に、この歯も抜けるのだろうと確信できていた。
 考えがどんどん怖い方向に向かっていく。
 起こってほしくないこと、避けたいこと、誰にも相談できそ
うにないこと。
 思考を断ち切りたくて、野菜を鍋に放りこんだり、できたて

の汁を器に盛りつけたりする。
 だが食欲はない。
 とてもかぐわしいかおりがしているのに、口中に広がるかす
かな血の味が台無しにしていた。
 せっかくだから、できたてを食べた方がいいだろう──しか
しもしなにか咀嚼したら、いま揺れている歯も抜けてしまうの
ではないか。
 危惧からはすぐ解放された。
 食べる以前に、するりと歯は抜けてしまったのだ。
 手のひらに吐き出した歯は、やはり頑丈そうな白とわずかな
赤で構成されている。
 一度器に盛りつけていた汁を鍋に戻し、それを手にコイトは
家を出た。
 おなじ敷地に、両親と兄夫婦が暮らす母屋がある。
「コイトさん、どうかしたの?」
 戸口をくぐるなりコイトに気がついたのは、兄嫁のテイだっ
た。裾の長いスカートを片手でたくし上げ、家事に一息入れた
ところだったようだ。かたわらには掃除道具がまとめてある。

「いや、その……汁ものをつくり過ぎたから、昼がまだだった

ら……」
「あら、ほんと? いただくわ」
「それで、今日は兄貴たちは?」
 コイトが問いかけると、テイはちょっといやな顔をした。
 それに気がつかなかったふりをしながら、コイトは言葉を続
けようと脳裏で話題を求め、思いついたものを口にする。
「前に水を汲みに出たときに、墓でへんなものを見たって話を
耳にしたから」
「それとうちのひとと、なんの関係が?」
 兄嫁の声に冷たいものがあからさまになっても、気がつかな
い顔でいる。
「へんなことがあったら怖いから……その、耳に入れた方がい
いかなって」
「……そうね。確かにそうだわ」
 幾分かテイの声がやわらぎ、コイトは息を吐く。気がつかな
いふりをしてみたところで、結局緊張を強いられることに代わ
りはないのだ。
「まあ、くわしいところは聞いてないから……その、兄貴が戻
ったら」
「私から伝えるわ。ありがとう」

 ぴしゃりとした物言いに、コイトはわずかに微笑んで家を出
る。
 兄嫁はコイトを煙たがっている。疎んじている。憎んでいる。
 嫁いできたころから、彼女の態度はかたい。
 テイが隣家の娘さんから兄嫁になり、とうに四年が過ぎてい
る。
 彼女はずっとコイトを嫌ったままだ。
 理由はわかっている。
 彼女の兄が投獄されるきっかけをつくったのが、ほかならぬ
コイトだからだ。
 ただならぬ目つきをした痩せぎすの男だったが、彼女の兄─
─ホウロはどちらかといえば、村ではおとなしいと分類されて
いた。
 コイトとおなじくひとの輪に自分から入らず、ひっそり暮ら
す男だと思われていたはずのだ。
 それがある日コイトに襲いかかった。
 ナイフで切りかかったのだ。
 それは祭りの喧噪に背を向けた、さみしい暗がりでのことだ
った。
 暗がりに人気はまばらで、だが兇刃をかわしたコイトが横転

するのを幾人かが見ていた。
 横転し、ホウロの顔を仰いだコイトは、彼がしまったとでも
いうような表情を浮かべるところを見逃さなかった。
 我に返ったホウロは、ナイフを取り落とすと身を転じて逃走
した。
 極度に緊張しひざどころか全身がふるえていたコイトには、
ホウロを追うことはできなかった。
 ホウロの行方は失われたものの、彼の凶行は村に知れ渡った。
 祭りの日だったのだ、村の人間はそこに勢揃いしていたとい
っていい。
 ことの子細を問われても、コイトは肩をすくめるだけだった。
そんなにホウロが酔っていたふうでもなかったのだが、とそれ
しかいわなかった。
 村から消えたホウロに、追っ手がかかることはなかった。
 身ひとつでそれほど遠くにいけるわけではなかろう。ただの
祭りの場での喧嘩沙汰で、頭が冷えたらホウロも戻ると誰もが
予想していた。
 予想に反し、ホウロは戻らなかった。
 間を置かず、祭りの後に村から市場に買い出しに向かったひ
とびとがいた。

 彼らは出先での話のたねに、ホウロの件を口にしたのだ。
 するとよく似た面相の強盗の話が、遠方から訪れたものの口
から漏れた。またべつの口からは、悪い薬を商っていた男に似
ていると。
 様々なところから出る、似ているという男の話が積み重なる。
 ホウロのあごには、みっつならんだ黒子があった。
 ただの他人の空似や同調しただけの話なら、そこで黒子のこ
とに誰もふれないだろうが、みな黒子のことを口にした。
 村のものだけではなかった。
 市場に出たものたちは、馬や馬車で帰路につくさなか、あち
こち立ち寄ることがある。道行き、宿や食事を提供してくれた
相手に、彼らは様々な話をするのだ。
 宿を提供する側は、金銭ではなく話を求めていることが多い。
どの村でも生まれてから生涯を終えるまで、土地を出ないもの
が多かった。市場に出かけることさえないものもいる。村を訪
れるものの土産話は歓迎された。
 そこで話される、黒子の話。
 あちらこちらで話された、同一人物らしき賊。
 話は転がっていき、じわじわと広がり、多数の耳に入ってい
く。

 すっかり話が大きくなったころ、自然と役人の耳に入ること
になったのだった。被害に遭ったものたちは多かったが、それ
ぞれの話が聞き取り調査された。
 随所を役人が渡り歩き、事態はひとの口を風よりもはやく渡
っていく。
 あちらこちらで偽名を使っていたが、賊は黒子を隠していな
かった。役人が方々をまわり、やがて指折り数えられていた罪
状は十を数えた。そのころホウロらしき賊がひとを殺めていた
話が出、役人は捕縛すると決めたようだった。
 コイトのところにも役人はやって来て、祭りの日の状況を尋
ねてきた。
 秋の祭りから時間は流れ、冬が深まった時期のことだ。
 コイトは悲しげな顔を努めた。
「じつはあのときは自分も酒を飲んでいて、彼に失礼なことを
いったかもしれないんです。あれはただの口喧嘩のようなもの
で……大事にはしないでいただけないでしょうか」
 訴えたが、役人は首を振った。すでにホウロが当時刃物をに
ぎっていたと、訪ねてきた役人は知っていた。
 賊をかばい立てすれば、それこそ同罪となるぞ、と役人はコ
イトに顔を歪めて見せた。

 権力を持つ強面を前に、それでもコイトはうなずかなかった。
悲しげな表情を崩すまいとする。
「でも、幼なじみなんです」
 コイトは続けた。
「ちいさいころから彼を知っています、彼の家族といまもとな
りで暮らしていて、よく知っているんです」
 口にしたのはそれだけだった。
 役人にはなにか思うところがあったのだろう、重苦しいため
息を落とすとコイトの肩を叩き、それで聴取は終わりとなって
いた。
 役人が国の方々を動きまわったとなって、ホウロは間もなく
捕縛された。
 春の声を待ち遠しく思うころのことだ。
 のちに役人と話す機会のあった村長がいうに、ホウロは悪事
の大本から切り捨てられたのだろう、とのこと。口を割れば類
縁に災禍が及ぶが、ホウロは沈黙に徹して投獄されていた。
 これ以上の災禍が広がることはないだろう。
 そう目され、事態は収拾するかとコイトには思われたが、そ
う簡単にはいかなかった。
 ホウロの肉親に対する壁を、村の面々が持つようになってし

まっていた。
 幸運にも、いやがらせや迫害が起こることはなかった。
 ホウロは村で悪事を働いていなかった。被害を受けたのはコ
イトのみだ。それも祭りの晩の小競り合い、そのていどの認識
になっている村のものが多かった。それが大きかったのかもし
れず、だが肉親が犯罪者として投獄されたとあって、村の面々
はホウロの家族たちにどう接したらいいか決めかねているよう
だった。
 コイトとしても、村で浮いてしまったホウロの家族たちの姿
には、心苦しさを覚えていた──くだんの件はホウロが仕掛け
てきたというより、コイトが煽ったために起きたのだ。
 村の外で行っている悪事を知っていると。
 露見は時間の問題だと。
 ホウロがまだ誰にも打ち明けたことのないだろう、気持ちを
寄せた女性のこともコイトは口にした。
 彼女はとうにおまえの弟分の恋人になっている、とコイトは
笑おうとした。他人の女の気を引こうとするのは滑稽だ、と笑
おうとした。
 他人にそんな言葉をぶつけるのははじめてで、他人を嘲笑す
るのもまた、はじめてのことだった。自分の声が上擦っていく

のをコイトは聞いていた。
 嘲るような物言いを心がけようと、コイトはそのとき必死だ
った。
 なんとしても、ホウロになにか仕掛けてもらわなければなら
なかったのだ。
 きっかけをつくらなければならなかった──ホウロの悪事を
なんとしても露見させたかった。













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