駄文の王様 > 日野 裕太郎/さつきの本 > 夏煉喧騒曲

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『夏煉喧騒曲』(日野裕太郎・ハルノブ)

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【ライトホラー長編】
すこし不思議なボーイミーツガール。
ひとり暮しを始めた悟朗の部屋には不思議な同居人が!

「バイト、行ってきます」
ブラウン管に向かって声をかけると、シガさんは微笑む。死霊らしからぬ、清々しい笑顔だ。
まるで留守番をして待っています、と言葉をかけられたようでうれしくなる。
シガさんと出会ってからのわずかな期間で、彼女に恋心を抱くようになっていて、その自覚が悟朗にはあった。

騒がしい子供の幽霊、近隣の放火事件、執拗なクレーマー…シガさんとの生活をひっかきまわす障壁たち。

シガさんのためならガンバル!

文庫 約286ページ(1ページ 39字詰め 18行)

便宜上、彼女をシガさんと呼ぶことにした。
はじめて顔を見たときに──目撃した衝撃が落ち着いてからだが、女優のシガニー某に似ている、と思ったからである。
涼しげな目元をしており、どちらかというとあくの強い顔だ。だが男子校出身の悟朗には、思わず見入ってしまうような整った顔立ちに映った。
ブラウン管に映る彼女は、はかなげで少し困ったような表情を浮かべている。
彼女を前にした悟朗は、胸をかきむしりたくなるような衝動がわき、自分の落ち着きがなくなるのを自覚していた。
シガさんはノースリーブのワンピースを着て、電源を落としてあるブラウン管に現れる。タイダイ染めらしきワンピースは、動いたときのシルエットが美しかった。
彼女の居場所を奪ってしまう気がして、悟朗はテレビを点けなくなった。
代わりに使う携帯電話のワンセグ機能を、シガさんはお気に召したようだ。微笑んで携帯電話をのぞきこむ彼女が、ブラウン管に見える。
こたつの横を見ても、誰もいない。だがブラウン管にはシガさんがいる。まだ二十歳くらいだろうか、髪の長いシガさんは実家にいる長毛種の猫を思い出させた。

【サンプル】

【1】ブラウン管の中の同居人
 
 帰宅するごとに、悟朗の顔はにやける。
 大学進学のため親元を離れ、はや二ヶ月が経っていた。
 安アパートに居を構えてから、帰宅し部屋を前ににやけるの
が日課になっている。自立の喜びは未だ冷めやらない。さみし
いと感じる間はなく、ひとりの暮らしは難儀はあっても楽しい
ものだった。
 アパートの立地は、最寄り駅から自転車ならば十分ほどの距
離だ。それも、呼吸をしている間も惜しむような速度で一心不
乱にこいで、である。なにより古い。トイレも風呂もついた2
DKで、築年数はかさんでいるが、悟朗にはそう悪い物件に見
えなかった──なにより悟朗でも借りられる、と判断できる家
賃なのだ。
「カビに気をつけてね」
 内覧後、はじめて顔を合わせた大家の第一声である。その横
で、不動産屋が苦虫を噛み潰すような顔をしていた。
 尋ねなくとも大家はしゃべり出した。
 そのアパートは日当たりが極端に悪いのだった。ベランダ側
のサッシを開けると、内覧時は昼日中だったというのに、やけ

に暗かった。
「うち、ひとり暮らしのお年寄りとか、女姉妹しまいで入居してるひ
とばっかりなの。若い男のひとが入ってくれると、心強くて助
かるわぁ。でも気を抜くとすぐカビるから、そこだけ気をつけ
てくださいね」
 そういって大家は笑い、不動産屋がかたい表情を崩さないと
いうことは、きっとそうなのだろう。
 大家にそのアドバイスを受けたときには、悟朗は入居を決め
ていた。
 そして入居した悟朗は、部屋を気に入っていた。
 カビへの用心くらい、たいしたことではなかった。が、惜し
むらくは、階下の住人の騒音に対するクレームの多さである。
階下に住む女性は物音に敏感だった。目を吊り上げ口角泡を飛
ばし、悟朗が立てる騒音について物申しに、引っ越し早々から
やってきた。騒音を立てる粗暴さを何度もなじられ、悟朗は頭
を抱えた。
 大学の学費はさすがに親を頼らざるを得ない。
 せめて生活は自力で、と進学が決まったときに悟朗は決意し
ている。
 このアパートの家賃なら、生活は自力でなんとかやっていけ

そうだ。だから苦情は自業自得だ、と無理にでも納得するよう
心がける──心がけよう、と決めた。要は静かに過ごせばいい
のだから。
 実家近隣と違い、首都圏のアルバイトの多さは驚くほどだっ
た。時給も実家周辺のそれよりずっといい。あっという間に悟
朗は、学業よりサークル活動やアルバイトに忙殺される生活に
なった。何故だか都会になじんでいっているような気がしてい
た。
 ひとり暮らしの悟朗の部屋は汚い。
 だが六畳の洋間の壁際に鎮座する、二十一型ブラウン管テレ
ビの周囲だけは整頓されている。
 つい先日リサイクルショップで購入したものだ。これが悟朗
の頬をいっそうゆるませる存在である。テレビは生活必需品で
ないがために後回しになり、かえってほしくてたまらなくなっ
ていたのだ。
 リサイクルショップの売り場では、薄い液晶テレビと違って、
大きく重いブラウン管テレビは床に直接置いてあった。価格も
二十一型で三千円。デジタル放送への移行が絡み、在庫となっ
て腐っているようだった──配送料こみで二千円にしよう、と
店主は申し出てくれた。

 店で映りを確認させてもらい、どうしようかなとつぶやきな
がら、悟朗はもう部屋のレイアウトを考えていた。購入したテ
レビが届いたのは、三日前のことである。
 アルバイトが忙しくて、帰宅してもテレビ番組を堪能する時
間が取れないでいた。
 テレビを眺め、にやけて風呂に入って寝る、というサイクル
だ。
 悟朗はそれまで、携帯電話のワンセグ放送でテレビ番組を見
ていた。これからは携帯電話の小さな画面ではなく、ブラウン
管の大きな画面で、のびのびと番組を楽しめるのだ。番組視聴
だけでない。ようやくゲームができる、と悟朗は封も開けてい
なかった段ボール箱を、押入れから引っ張り出した。
 駅前のレンタルビデオ店の会員にならねば、と思いつつ、悟
朗は家庭用ゲーム機を接続する。
 晴れた日曜日、シフトが遅番なので、アルバイトまで時間が
あった。
 悟朗は予定外の出費となったアンテナに目をやり、ゲームを
するか、なにか番組を流すか、買出しがてらDVDを借りるか
考える。迷うのも楽しい。ゆっくりゲームをしたり映画を見る
時間があるのか、アルバイトのシフトを考えかけたが止めてお

く。楽しい気持ちに自ら水を差す必要はない。
 そのとき視界に入ったものが、悟朗には当初信じられなかっ
た。
 阿呆のように口をぽかんと開けて、それを見守る。
 静かな室内、もぞもぞ動かした尻が薄いカーペットですれる、
しゃり、と小気味のよい音を聞いた。
 悟朗の凝視する暗いブラウン管のなか、暗い色味のワンピー
スが揺れる。
 広がったすそからのぞく白い足はきれいだ。
 するり、とそのワンピースは、音もなくブラウン管を横切っ
て消えた。
 悟朗はゆっくり部屋を見回す。古いアパートの、散らかった
汚い部屋である。安い蛍光灯を選んだためか、照明はどぎつい
ほどに明るい。壁際に積んだ雑誌の影や壁のすみに、綿ぼこり
がわだかまっていた。
 女っ気のない部屋だ。
 つき合っている彼女など、悟朗にはもちろんいない。
 悟朗の視野に、もうワンピースはちらりとも現れなかった。
「……なに、いまの」
 声に出してみたが、応じる声はなかった。

 なんとなく隣室をのぞきに行く。
 となりの四畳半の和室は、寝室に使っていた。
 すでに万年床になっている布団を囲んで、収納に使っている
段ボール箱が散乱している。以前の大家の言葉のとおり、湿気
が多いらしく、段ボール箱は心なしかしんなりしていた。
 開け放したサッシから、涼しい風とカレーのにおいが部屋に
流れこんだ。
 サッシとカーテンを閉める。鼻に残ったカレーのにおいに、
昼食の時間だ、と気を取り直した。
 買い置きのコンビニ弁当を電子レンジで温めて、食卓兼暖房
のこたつにすわると、悟朗は自然とテレビに向かうかたちにな
った。
 腰を下ろしてしまったことだし、ゲームでもやりながら食事
にしよう、と悟朗はリモコンを探す。
 見つかったリモコンは、取りこんだまま放置している洗濯物
の下から顔をのぞかせている。立ち上がるのが面倒だった。弁
当を持ったまま、ものぐさにテレビ本体の電源に手をのばした。
 ブラウン管を──曲面に映りこんだ悟朗の背後を、右から左
へとワンピースのすそが踊るように弾んで通り過ぎた。
 から揚げ弁当が手から落ちる。信じられなかった。見たもの

が頭に浸透しない。
「……あ」
 我に返って弁当を拾うと、カーペットに油染みができていた。
 糸クズがつき過ぎている弁当を、そのまま台所に持って行く。
ごみ箱におさまった弁当にため息が出た。貧乏学生にとってあ
まりに哀しい眺めである。
 しばらくそこでまごついていたが、アルバイトがあることを
思い出した。アルバイト前に悟朗はシャワーを浴びることにす
る。
 頭が思考を拒否し、ブラウン管をよぎったワンピースや油染
みのことを深く考えられなかった。
 風呂上がり、悟朗は裸のまま下着を取りに行こうと、テレビ
のある部屋のふすまを開ける。
 ブラウン管にワンピースが映っていた。
 軽い曲面になっているブラウン管のなか、しゃがみこんだ女
性が両手で顔をおおっていた。指の隙間から、全裸の闖入者を
瞠目して見ているのがわかった。
 彼女の悲鳴が聞こえないのが不思議なほどだ。
「すす、すみません!」
 思わずどもって前を隠し、悟朗は台所の方に取って返す。

 そして悟朗は女性の姿を脳裏で再生する。
 ぶわ、と全身の鳥肌が立つほど、ありえない光景だった。
 幽霊、という言葉が、喉元にせり上がろうとした。
 居間を確認しなければ、と思うが、怖じ気づいてふすまにふ
れられない。だが裸でいるわけにも行かず、アルバイトの時間
も迫っている。
 意を決して居間をのぞくと、ブラウン管にはかたい表情の悟
朗が映っているだけだった。
「……誰もいない」
 ひとりごとをいってみたが、当たり前か、と自嘲する。
 自嘲したのに、悟朗は何度も居間を確認した。
 取りこんだ洗濯物の小山から下着を引っ張り出すが、悟朗は
ずっと前を隠したままであった。
 
 ●
 
 便宜上、彼女をシガさんと呼ぶことにした。
 はじめて顔を見たときに──目撃した衝撃が落ち着いてから
だが、女優のシガニー某に似ている、と思ったからである。
 涼しげな目元をしており、どちらかというとあくの強い顔だ

だが男子校出身の悟朗には、思わず見入ってしまうような整っ
た顔立ちに映った。
 ブラウン管に映る彼女は、はかなげで少し困ったような表情
を浮かべている。
 彼女を前にした悟朗は、胸をかきむしりたくなるような衝動
がわき、自分の落ち着きがなくなるのを自覚していた。
 シガさんはノースリーブのワンピースを着て、電源を落とし
てあるブラウン管に現れる。タイダイ染めらしきワンピースは、
動いたときのシルエットが美しかった。
 彼女の居場所を奪ってしまう気がして、悟朗はテレビを点け
なくなった。
 代わりに使う携帯電話のワンセグ機能を、シガさんはお気に
召したようだ。微笑んで携帯電話をのぞきこむ彼女が、ブラウ
ン管に見える。
 こたつの横を見ても、誰もいない。だがブラウン管にはシガ
さんがいる。まだ二十歳くらいだろうか、髪の長いシガさんは
実家にいる長毛種の猫を思い出させた。
 悟朗は朝起きると、布団の敷いてある部屋で身支度を済ませ、
居間に入る。
 ブラウン管に目をやって、彼女が部屋にすわっている姿を確

認した。悟朗はしまりのない顔になる。画面を介して、おたが
い目で挨拶を交わした。
 その流れは日課になっている──シガさんがブラウン管に登
場してから、一ヶ月ほど経っていた。
 彼女はブラウン管に現れるばかりで、ほかの場所には現れな
い。
 目に見えないだけで、実際はべつの場所も歩きまわっている
かもしれない。そこは確認のしようがなく、悟朗にはわからな
い。シガさんが口を動かしても、声は聞こえないので会話には
ならないのだ。
 まず彼女は、人間ではない。状況だけを見ると、彼女は死霊
であり、世の条理から外れたよろしくない存在だった。
 そう思ったところで自分にできることがあるのか、悟朗には
皆目見当がつかない。
 臨時で入ることになったアルバイトが朝からあり、悟朗は素
のままの食パンを口に詰めこんだ。
「バイト、行ってきます」
 ブラウン管に向かって声をかけると、シガさんは微笑む。死
霊らしからぬ、清々しい笑顔だ。
 まるで留守番をして待っています、と言葉をかけられたよう

でうれしくなる。
 シガさんと出会ってからのわずかな期間で、彼女に恋心を抱
くようになっていて、その自覚が悟朗にはあった。
 春に卒業したばかりの高校は、男子校だった。
 女子は遠くで愛でる、花のようなたおやかな生きもの──そ
れが在学中の、同級生たちとの共通見解である。
 当時の悟朗は、坊主頭で汗くさいバスケットボール部のベン
チ要員だった。女子などという繊細な存在が、好き好んで寄っ
てくるわけもない。悟朗のみならず親しい友人たちも、高校三
年間で彼女ができたことはなかった。
 生きている人間ではないが、シガさんのいる生活は悟朗にと
って降ってわいた幸運のようなものだった。
 彼女との同居生活に入って、身体の不調など不穏な症状はな
い。災難が続くとか身体を壊すとか。悟朗にとって死霊に取り
憑かれるというのは、そういう弊害のあるものだった。またそ
のていどの、テレビで見た怪奇番組の受け売りの知識しかない。
 害がないからシガさんが悪霊ではないのか、たまたまそうな
のか。まったく判断がきかないのだ。
 アパートを出た悟朗は歩き出した。
 汗ばむのにさほど時間はかからず、駅に向かうバスが悟朗を

追い抜いていく。おいそこのおまえ暑いだろ、と揶揄するよう
にエンジン音が尾を引き、暑いという言葉に飽きるほど暑い。

 盛夏になるまでに、部屋に冷房を入れたかった。
 冷夏になるという予報を何度も耳にしている。だが春の終わ
りの現時点で、悟朗をはじめ周囲の意見は嘘だろ暑いぞおい、
というものでまとまっていた。これまで実家で冷房のある生活
をしていた身としては、とうに酷暑でしかない。
 アルバイトをもっと増やそう、と最近引きしまってきた腹に
手をやる。
 シガさんの前で、汗だくのだらしない格好をさらしたくない。
当初はひとり暮らしのつもりだったので、実家から持って来た
古い扇風機で間に合わせる予定だった。
 金を貯めスマートフォンとパソコンを購入したかったのだが、
それもシガさんの少し頼りなく見える横顔や、帰宅した自分に
見せる微笑みに比べたら価値は低い。彼女の前でいい格好がし
たかった。うだるような暑さにへばる野郎など、嘲笑されはし
ても、ときめかれはしまい。
 霊感や霊能力といった特殊能力が欲しくなっていた。シガさ
んが何故悟朗の前に現れたのか、皆目見当がつかない。悟朗は

自他共に認める鈍感だ。特殊能力があれば、彼女と会話できる
かもしれない。
 高給目当てで、最近深夜の警備員や清掃のアルバイトを増や
した。ベースとして漫画喫茶で店員もしており、身体がきつい
と感じることはあったが、いつの間にか慣れていた。
 学業はおろそかになっていたが、まわりの学生もおなじよう
なものだ。
 べつに変な女に貢いでるわけじゃないし、と思いながら、無
意識に悟朗は胸を反らして歩く──ただただ恋をしているのだ。
 いつもシガさんの笑顔が頭の片隅にある。
 シガさんの笑顔につられて、悟朗もまた笑顔になり勝ちだっ
た。そのためいつもにこにこしている悟朗は、どのアルバイト
先でも受けがよかった。
 パートのおばさんから妙な八つ当たりを受けても、気にしな
くなった。真に受けて苛立つなど、シガさんに嫌われる気がし
たのだ。結果、悟朗はいつも鷹揚に構えるようになる。漫画喫
茶の店長は、悟朗のその姿勢をいたく気に入ったようだった。

 なにがどう転がるかわからないものだ。
 すべてがシガさんのおかげで好転している──きみがいるか

らがんばれるんだ。口に出せない言葉を心中でつぶやくと、は
にかむシガさんの顔が浮かんだ。
 恋ってすばらしい。
 相手が幽霊だということが頭からきれいに消えている悟朗は、
携帯電話の呼び出し音で我に返った。
 メールが着ている。差出人はサークルの先輩だった。
 その名を見て、うっかりサークルの飲み会を忘れてアルバイ
トを入れていた、と気がついた。
 
 
「なに、おまえ女でもできた?」
 飲み会に遅刻して現れた悟朗に、すでにでき上がっていた幹
事が開口一番にそういった。
「いえ、そういうわけじゃ……」
「彼女連れて来ればいいじゃん。んで俺に女友達、紹介してく
れよん」
「だからべつにそういうわけじゃ……」
「俺もラブラブちゅっちゅしたいよぉん」
 背後から参加者の先輩うぜぇ、という荒い声がかかり、幹事
は妙な節のついた歌をくちずさみながらそちらに向かう。酒宴

の開始から一時間ていどのはずだが、足取りは泳ぐような不安
定さだ。
 会場は十畳ほどの座敷で、詰めこまれた学生が酒を酌み交わ
している。
鳴瀬なるせ、こっち」
 奥まった席から、友人の内藤が手を振る。酔っぱらいをかき
わけ、内藤ととなりの女子の間に腰を下ろした。
 文学同好会、とわかりやすいようで内情のうかがえない名称
のサークルだ。
 飲み会に参加してみても、文学談義に花が咲いているわけで
もない。暇人が集まって管を巻くようなサークルである。
「なに、鳴瀬またバイト?」
「うん。うっかりして、シフト入れてた」
「平気なのかよ」
「もう終わった。ちょっとあせったけどね」
「最近バイトばっかしてんな、おまえ」
 同学年の内藤は、サークルで最初に親しくなった相手だった。
おたがい未成年だったが、飲み会では誰も気にしていない。
 通路を通りかかった店員に生ビールを注文する。
「クーラー欲しいんだよ」

「電気代上がんぞぉ」
「近所に口うるさいひといてさ。窓開けると騒音が行きそうだ
から」
「バイトして家にいなけりゃいいじゃん」
「なんだよ、ちょっとはぜいたくさせろよ」
「アルバイトって、なにをしてるの?」
 となりの女子が話しかけて来た。
 はじめての顔だ。最近サークルに顔を出さなくなった悟朗に
は、親しい相手以外は名前どころか顔も思い出せなくなってい
る。
「あの、時代ときしろ叶っていいます。サークル入ったの最近だから…
…はじめまして」
 初対面か、と悟朗は笑みを返す。目の大きい子だ。シガさん
が長毛のはんなりとした猫ならば、対して闊達に走る犬のよう
な印象だ。
「あ、俺、鳴瀬悟朗です」
「鳴瀬くん、最近やせた、よね?」
 初対面だと思ったが、彼女は悟朗を知っているような口振り
だ。
「そうかな?」

「引きしまった感じする。バイト、なにしてるの?」
「身体使うバイトはじめたせいかもしれない。登録制のやつ、
あっちこっちで色々やってるよ」
 ひとりで参加したようで、手持ち無沙汰だったのだろう、彼
女は悟朗によく話しかけてきた。
 おなじ講義を取る縁がわかり、むしろ教室にいたはずの彼女
に覚えがなくて気が引ける。悟朗の心情はさておき叶は話し上
手で、気がつくとすっかりうち解けていた。内藤もべつの友人
と話しこみはじめたので、悟朗は叶と話し続けた──と思う。

 気がつくと悟朗はアパートの布団にいたのだった。
 頭が痛い。眼の奥が痛い。目を閉じるとぐるぐるまわる感じ
がして、吐き気がこみ上げる。トイレにこもるほどではないと
判断し、悟朗は布団にくるまった。汗だくなのに、ひどい寒気
に襲われる。
 飲酒経験は大学進学までほとんどない。盆正月、集まった親
戚が冗談紛れに飲ませてくるくらいしか経験していなかった。
宿酔いは大学進学で知った悪癖ともいえた。
 うう、とうめくと吐き気が楽になった気がした。目を閉じる
と、身体が揺れる感覚に襲われてしんどい。それでも眠ろう、

と無理矢理頭のなかを空っぽにしようとがんばる。宿酔いにな
るたびに、もうこれからは飲まない、と悟朗は誓っていた。
 気持ちが悪過ぎて眠れるか心配になったが、悟朗はあっさり
眠っていた。
 
 
 目を覚ますと昼過ぎだった。
 一度目を覚ましたときよりも、ずっと気分がすっきりしてい
る。
 悟朗を起こしたのは大家だ。気まぐれに煮ものやくだものを
わけてくれる、六十過ぎのおばあちゃんである。
 いかにも起き抜けの悟朗が玄関を開けると呵々と笑う。
「なに、寝てた?」
「あ……はい。大丈夫です」
 酒のにおいが抜けているよう祈り、悟朗は気まずく笑い手ぐ
しで前髪を整えた。
「ごめんねぇ、ちょっといい?」
 返事を待たずに、大家は悟朗を押して玄関に上がった。
「あら、おっきいテレビ」
「あ──」

「買ったの? いいわねぇ。テレビないと、つまんないもんね
ぇ」
 大家の視線の先には、開け放された居間と、そこからのぞく
テレビがある。
 悟朗にはくっきり映りこんだシガさんが見えていたが、大家
はなにもいないかのような態度で笑った。
「鳴瀬さんったら、ちゃんと部屋片づけるようになったのねぇ。
越して来たばっかりのときは、部屋んなかカビさすんじゃない
か、って心配んなったけど」
 悟朗の胸ほどの背丈の大家は、外見にそぐわない大きな声を
出す。
「ちゃんと掃除してますよ。ほんとに」
 常々大家は悟朗と行き会うたびに、カビを生やすな、と耳に
たこができるほどくり返していた。再三の忠告に、悟朗はカビ
そうな場所はとりあえず頻繁に掃除するようになっていた。
 大家は背中のドアが閉まっているのを確認し、声をひそめる。
「今日はね、その、下の階の済田すみたさんから……ねぇ?」
「ああ……苦情行ったんですか」
 またか、という単語を飲みこむ。
 このアパートに越して、まだ三ヶ月を過ぎたところだ。階下

の済田は、その間に五回も大家に苦情の申し立てをしている。
当然直接悟朗に苦情もいうし、不在時に丁寧な言葉で「うるさ
い」と書いた手紙を新聞受けに入れたりもする。謝りに行って
も、静かにしてほしいだけです、といいつつ、悟朗の顔を正面
からにらみつける。
 最初の注意から騒音には気をつけていたが、済田の苦情は依
然続いていた。悟朗にすれば、印象も態度もあまりよくないご
婦人だった。
「なんでもね、昼間なんかにも足音がばたばたしてる、って」
「昼……は大学行ってるんで、勘違いだと思うんですが」
 難癖、という単語が頭に浮かんだ。
「ねぇ? で、友達でも呼んでふざけてるんじゃないか、って」
「あ、僕うちに呼ぶような友達いないです」
 断言してから、悟朗は取りつくろうように笑う。笑うものの、
さーっと血の気が引いていた。
 大家も笑っていたが、視線にたっぷりと憐憫の情が含まれて
いる気がする。
「あの、友達はいるんですけど、その……バイトで忙しくて、
うちには寝に帰ってるっていうか」
「まあまあ、これから友達つくればいいじゃないの。つくりな

さいね。彼女とか。友達とか。ひとりはさびしいわよ、若いう
ちはぴんとこないと思うけど。友達くらいいないと」
 友達の部分に力を入れる大家の口調は、あからさまに悟朗を
諭すものだった。
「前にここの部屋に住んでた子もね、女の子だったんだけど、
友達つくるの苦手だっていってて。だからさびしくて実家帰っ
ちゃったんじゃないかしら。夏ごろだったかしら。火事がいや
だ、なんて話してたのよ。あ、知ってる? このあたり、ちょ
っと前まで放火が多かったのよ、犯人まだ捕まってなくてねぇ。
寝タバコなんかしちゃ駄目よ? あれで火事になるの多いんで
すって」
「僕タバコ吸いませんから」
 店子が未成年だと忘れているのか。宿酔いの自分をかえりみ
て、悟朗はひっそり笑った。
「そうだ、おばちゃんが友達になったげる! はじめの一歩よ、
大事なのは。百人できるかな。できるといいわねぇ」
 悪いひとでないのだが、大家には相手の話を聞く機能がつい
ていない。
「……心強いです」
 なおもまくしたてる大家に、悟朗は短くこたえた。

「あらやだっ」
 悟朗の部屋の方を見て、大家が突然大きな声を上げた。
 シガさんの件もあり、悟朗は飛び上がりそうなほど驚いた。
「特売の時間になっちゃう、忘れてたわ!」
 叫ぶようにいって、大家はあわただしく帰っていく。
「特売か……」
 なるほどそれは大事な用件だろう。店子との話もそこそこに
帰っていくくらいに。
 階下の住人を思うと気が重い。ゴミ置き場で顔を合わせる限
り、そんなに口やかましそうな印象はなかった。
 アルバイトに疲れた悟朗は、そもそも自室でそんなに動きま
わらない。
 意識もしていない生活音が原因なのだろうか。確かに古いア
パートだが、そこまで普請が悪いとも思えなかった。
 うだうだ考えても、済田の心中を察せるわけではない。憂鬱
でしかないが、一度誰かに間に入ってもらい、きちんと話をし
た方がいいかもしれない。
 ひとりになった悟朗の腹が、盛大に鳴った。
 居間に行くと、ブラウン管では憂慮顔の面持ちのシガさんが
首をかしげていた。

「下の階のひとが、騒音のクレームよこしたんだって。大家さ
んが来てくれたんだ」
 シガさんはうなずいた。大家の声は聞こえていたのだろう。
 一方通行で進展は芳しくなかったが、シガさんが現れたころ
に色々訊いたことがあった。
 わかったのは、彼女にこの部屋以前の記憶がないこと。居間
から出られないこと。かといって、ずっと居間に留まっている
のではないらしい。
 彼女の声は悟朗には聞こえないので、会話は成り立たない。
つっこんだ質問はできないでいた。噛み合わない質疑応答は疲
弊するばかりだった。
 ここ最近は悟朗の話をシガさんが聞く、というスタイルにな
っている。
 悟朗としては、どうにか彼女と意思の疎通を取りたかった。
 画面でシガさんが部屋のすみに行き、指さした。
 そこに転がっているのは、悟朗のショルダーバックだ。昨日
飲み会に持って行ったもの。帰宅した悟朗は、一度は居間に来
ていたようだ。
「かばん?」
 なかを見るようジェスチャーされて確認すると、なくしたも

のはなく、ただ携帯電話に着信が何件もあった。
「これ?」
 画面を見るとシガさんが首肯する。表示されている数字は、
見覚えのない電話番号である。眠っている間に、四回の着信が
あった。にわかに警戒心が首をもたげる。
 誰だろう、と思っているところに、その番号から新たに電話
がかかってきた。けっこうな音量で設定した黒電話の音がする。
 騒音の話があったばかりで、あわてて悟朗は電話に出た。
 出てみると、昨日飲み会で肩を並べた時代叶からだった。携
帯電話の番号を教えた覚えがなかったが、知っている人間から
だったので悟朗は肩の力を抜く。
『起きてたかな……?』
「ああ、うん。さっきまで寝てて、携帯鳴ってるのわからなく
て。ちょうどいま着信あったの気がついたんだ」
 シガさんの前でほかの女の子と話すのは、尻のすわりが悪か
った。
 やや高くなった声で悟朗は話していた。
『昨日はみっともないとこ見せちゃってごめんね……調子に乗
っちゃった』
「あ、こちらこそ。俺も羽目外したし……」

 そういってみるが、なんのことやら記憶にない。
「それでどうかした? 何回か着信もらってるみたいなんだけ
ど」
『あのね、ミステリ研究会あるでしょ? そこと交流会やらな
いかって話があるんだって。参加しようと思うんだけど、鳴瀬
くんも行かない?』
 それを聞いて悟朗は得心がいった。
 サークルで連絡事項をまわす連絡網を前にもらっている。携
帯電話のメールで一括送信すればいいものを、会長が電話連絡
に重きを置くせいで、サークルメンバーには電話番号が配られ
行き渡るのだ。用紙の順番では悟朗への連絡係りは内藤だった
が、どういうわけか今回は時代が請け負ったらしい。
 宿酔いでくたばっていたとはいえ、何度も電話をかけさせて
申しわけない。
「ミス研かぁ。会長よく許したなぁ」
 ミステリ研究会の会長と、文学同好会の会長は不仲だった。
『会長は今回噛んでないの』
「え?」
『こっちもあっちも、会長は絡んでないんだって。幹事さんが
いうには、会長同士が仲悪いからって、みんなが巻きぞえなの

はおかしいって。それにね、交流会やってメンバー同士が仲よ
くやってれば、もしかしたら……会長たちも仲直りするきっか
けになるかもしれないじゃない?』
 悟朗は大学構内で鉢合わせた両会長が、無言のままいきなり
カバンでたがいを叩き合う場面に遭遇したことがあった。周囲
が無理矢理に引き離しても、無言でにらみ合っていた。
 あの雰囲気は、叶がいうような生易しいものではない。不思
議なことに、誰も彼らの仲違いの原因を知らなかった。それは
かえって根の深さをうかがわせる。
「後々、もめごとになったりしないかな」
『交流会自体は、どこでもやってるみたいだから……大丈夫じ
ゃない?』
 聞けば交流会は一週間後だった。平日深夜は清掃のアルバイ
トがあったが、週末は空いている。週末のシフトは、サラリー
マンと思しき勤め人が入るのが常だった。
『鳴瀬くんも行こうよ』
「飲み会かぁ……」
 シガさんは悟朗のつぶやきを聞き、穏やかにうなずいた。行
ってらっしゃい、と後押しされた気持ちで、悟朗は了解と叶に
伝えた。

『ほんと? よかったぁ』
「これって連絡網だよね? 俺次は誰にまわせばいいのかわか
る? 時代さん、内藤の代わりでしょ?」
『あ……内藤くん、予定があってパスするって。鳴瀬くんまで
で大丈夫だから、この後は誰にも連絡入れなくて平気だよ』
 繁華街にある有名チェーンの居酒屋で、交流会は行われる予
定だった。場所がよくわからない、という叶を連れて行く約束
をして、悟朗は電話を切る。
 シガさんに電話の内容を話しながら、昼食に買い置きのカッ
プ麺をすすった。吐き気はとっくは消えていて、あっという間
に腹におさまる。
「どうせ講義で会うんだから、わざわざ電話よこさなくていい
のにね」
 ブラウン管のなかでシガさんは、ちょっと困ったような顔を
していた。
 
 ●
 
 幽霊にはいくつかのカテゴリーがある──自縛霊や浮遊霊な
どというものだ。

 シガさんのことが知りたくて、何冊か大学の図書館で心霊関
連の本を借りて読んでいた。
 自縛霊というものは、恨みなどの強い感情を持っている。死
んだ場所に自らを縛りつけ、死後そこから動けなくなってしま
った霊魂のこと。自殺者や殺害された被害者の霊魂に見られる
もののようだ。
 浮遊霊というものは、死後自分が亡くなっていることに気づ
かず、目的もなくふらふらとさまよっている霊魂のこと。
 また精霊や生霊といった言葉も出てきた。
 精霊は仏教では死者の霊魂を指すようだが、地水火風の四大
元素が変化した、妖精や妖怪の親戚のようなものだった。
 生霊はまだ死んでいない身体から、霊魂が離れた状態のもの。
 ──シガさんは自縛霊だろうか。
 強い感情に縛られる、と本の記述にあったが、彼女には以前
の記憶がないらしい。質問に首を縦か横に振るだけの質疑応答
だったが、悟朗には彼女を疑うつもりは毛頭ない。
 気にならないわけではないが、シガさんが自縛霊だったら、
彼女が抱いているはずの恨みとはなんだろう。
 横目でうかがった彼女は、静かに窓から外を眺めている。清
楚な横顔は、怨念だの恨みだの、負の感情とは無縁に思えた。


 彼女が自分をどう思っているのか、それが気にかかって仕方
ない。なにやらひとりではしゃいでいる同居人、ていどかもし
れない。だがしかし、悟朗とおなじように恋心を胸に秘めてい
るかもしれない。
 思い切って尋ねてみれば、その首の動きだけで悩みが──恋
愛感情があるか否かを解決できるかもしれないが、「否」とい
う返答が怖くて悟朗は訊けずにいる。
 悟朗が図書館で借りた心霊本を読み終わる前に、交流会の日
になっていた。ちょうど本の返却期限も過ぎようとしていて、
交流会の前に大学に寄り道することにした。
「行ってきます」
 声をかけると、ブラウン管でシガさんがうなずく。恋愛経験
はないが、おそらくこれはとてもいい雰囲気なのだ、と悟朗は
浮ついた気持ちになった。
 外気は暑かった。初夏から盛夏に移行するねっとり重い空気
をものともせず、小走りに駅に向かう。
 大学の最寄り駅までは電車で一本。乗車時間は三十分くらい
だ。
 会場の最寄り駅で待ち合わせている叶からは、この一週間に

何度か連絡があった。他愛のない話をし、じゃあまた、と通話
を終了する。好奇心の強い明るい子だ。
 友達がいないわけでもないだろうに、何故連絡をよこすのか
──悟朗にはなんとなくしっくり来ないが、ああいう子を社交
的というのだろう。
 自分にすれば女友達ができるのは珍しく、それはそれで浮き
足立った。
 大学に着き、図書館に足を向けた悟朗の耳に、怒声が飛びこ
んだ。
 見れば周囲にまばらに見える人影が、ひとつの方向を凝視し
ている。
 そこには文学同好会の会長が赤銅色の顔をして立っていた。
激怒しているのは傍目にも明らかで、対峙する見知らぬ男に声
を荒げて指をつきつけている。
 聞き耳を立てると、言葉に「ミス研」「無断でなにを」「交
流の必要など」と悟朗が反応しやすい単語が混じっていた。今
夜の交流会が彼の逆鱗にふれているのだ、と想像に易かった。

 そっとその場を離れ、本を返却しないまま悟朗は電車に乗っ
て繁華街に向かった。

 ──会長に無断で交流会、というのはやはりまずいのではな
いか。
 悟朗は車内で叶にメールを打ち、目撃したものを報告する。
返答ははやかった。
 叶は目的地の繁華街にすでにいて、買いものをしているとい
う。悟朗が到着次第、合流する流れになった。
 駅に到着すると、急いで待ち合わせ場所の改札口に向かう。
ふと思い起こした激昂した会長の顔に、悟朗は重い息を吐いた。
誰のものであっても、怒り心頭に発していると即座に理解でき
る姿は、見たものに緊張を強いるものだ。
 繁華街の最寄り駅というだけあって、人波は途切れずあわた
だしかった。
 ひとの声がさざなみのようで、騒音ではなくかえって眠気を
誘う心地よさがある。会長の憤怒の表情が頭から消えはじめ、
ほどなく叶が現れた。すいすい、と泳ぐように人波に逆って進
む。場慣れしている印象だった。
「鳴瀬くん、待った?」
「着いたとこだから」
 大学構内で見たものをあらためて叶に説明し、交流会の参加
は見合わせた方がいいのでは、と提案する。

 駅の片隅で、キャンセルするかどうかふたりで協議した。
 
(※ 本編に続く)

















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