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『夏がいき、風ばかり熱い』(日野裕太郎・ハルノブ)

【SF中編】
人間の遺伝子と動物の遺伝子をかけ合わせた生命体--リリエンス
ヒトではなく器物として扱われる。

猫のリリエンスを愛した男がいた。
娘の臓器移植のためにリリエンスの生命を買った夫婦は
娘の葛藤に気づいていなかった。

犠牲の先にあるものに向かって、男と娘は少しずつ近づいていた。

おなかになじめば、すぐ退院だよ――担当の医師は、清々しい笑顔でいっていた。
リリエンスはキリエの未来になる。
両親はすべてを失い、中年でありながら身ひとつから再出発する。
――そして。
キリエはそっとため息をついた。
――私のせいで、リリエンスが死ぬことになる。
胸にあるのは、自己嫌悪に似た吐き気だった。

【サンプル】

 ニュースの時間です――見目麗しい女性アナウンサーが、よ
どみなくニュースを読み上げる。
 株価、異国で起こった内乱、政治家のスキャンダル。
 どのニュースも、波乱にチューニングされている。そのどれ
にも心は動かなかった。
 チャンネルが変えられた。
 となりでリモコンをにぎる手は白く、ほそい。
 次々と変えられるチャンネル、それはバラエティ番組の騒音
で止まった。
 番組テロップは白に赤い縁取り――『リリエンスと夫が不倫
!?
 獣姦やアブノーマル、禁断の恋路などといった軽薄な単語が、
派手派手しい書体で画面上を点滅しながら踊った。厚みのない
大きなモニター、そなえつけのスピーカーから、どっとはやし
立てるような下品な笑い声が放たれた。
 彼女から表情が消えている。
 番組では、相談者が電話で話している内容がスタジオに流さ
れていた。
 司会者とゲストたちが一般視聴者の相談を受けるスタンスの
もので、中高年の主婦層に人気のある番組である。

 視聴者が番組司会者に相談を持ちかけている。
 伴侶が自宅飼いのリリエンスと、どうやら肉体関係にあるよ
うだ、と女性のヒステリックな声が訴えている。動揺を隠しき
れない相談者の声に、番組司会者が煽るようなコメントをくり
出し続けていた。
 リリエンスは半世紀ほど前に生産が開始された、人間の遺伝
子をもとにしてつくられた亜人――クローン体の商品名だ。
 人間のみならず、家畜の遺伝子も組みこまれている。どのラ
インナップも高価だ。相談者は、自宅のものは牛のリリエンス
だという――身体が頑丈で、力が強い。そして従順な気性が売
りになっている。
「角のあるけだもののくせに!」
 叫ぶ相談者の声は、怒りに彩られていた。
「飼ってやって、まともな暮らしを誰がさせていると思ってい
るの! 家畜の自覚がなさすぎます!」
 リリエンスは自宅で飼う認可にも金がかかる。相談者の家庭
の収入は、人並みならない額だと想像できた。
 彼女は忙しない動きで、手にしたグラスを揺らす。氷が涼し
い音を立てる。彼女の柳眉がしわを寄せていた。
「家畜相手なんだから浮気だなんて思わずに、いっそ奥さんも

もう一匹飼って、一緒に楽しんでみたらどうです」
『いやです、汚らわしいあんなけだもの!』
「けだものと遊んでる旦那さんが聞いたら、さぞ悲しまれます
よ」
 どっと笑うスタジオの観客の声。
 聞いていて不快になる番組の流れと、笑う声、嗤う声。
 楽しくない番組を消そうとリモコンに手をのばしたとき、か
たわらの彼女がにぎっていたグラスをモニターに投げつけた。

 クリスタルグラスは砕け、ソーダと氷が飛び散った。
 モニターが一瞬でびしょ濡れになる。
 つかみどころのない、ぼつぼつと不平めいた音を出し、それ
きりスピーカーは沈黙した。液晶テレビの台も濡れ、下に収納
してあったレコーダーにソーダがしたたっている。あの様子で
はもう駄目だな――あわてて拭く気にならず、僕はため息を飲
み、彼女の肩を抱いた。
 彼女は泣いていた――そして怒っていた。
 彼女の頭には、一対の耳がある。人間のものではない。やわ
らかい黒髪とおなじ質の毛が生えた大きな耳は、猫のものだ。
人間のそれがあるべき場所には、退化した名残の、やわらかい

ひだめいたものがあるのみ。
 彼女は猫の遺伝子を持つリリエンスだ。
 機微に富んだ性格、高い知能、人間との距離を取る感覚――
猫のリリエンスは慰安を目的とした商品だ。
 怒りながら泣く彼女を抱きしめる。抵抗はなかった。預けて
くる体重は軽く、背中にまわした腕はあまる。頼りないほそい
身に、彼女は激情を棲まわせている。
「こんなの、やだよ、カイ」
 うん、と同意した。
「こんなこと、やだ」
 うん、と彼女を抱きしめる力を強くした。
 リリエンスは消費される。
 高額商品であり、器物なのだ。
 彼らリリエンスには、意思も個体差もある。それこそ人間と
おなじように。そして彼らは等しく管理され、消費され、遺棄
される。
「カイ、もう終わりにしたいよ」
 語尾は涙声になっていた。
 そうだね、ナツ。
 僕はそうこたえながら、彼女の髪に顔を埋めた。

 彼女は僕の父が十年ほど前に買ってきた。
 母は亡く、ひとりになりがちな性格の僕のために、と家に腰
を落ち着けることのない父からの贈りものだった。
 リリエンスを受け入れる学校はないが、級友たちより彼女は
賢い。
 リリエンスを隣人として受け入れる地域はないが、僕たちは
一緒に育ったこの家のなか、寄り添って過ごしていた。
 彼女は僕の恋人だ。
 ひとによっては気味が悪い、と判じることのある、猫独特の
明るさで変化する虹彩、それも僕には好ましく映る。虹彩だけ
でなく気まぐれだが芯のある気性など、彼女のなにもかもが好
ましい。
 彼女と暮らす――暮らし続ける基盤が欲しい。
 猫のリリエンスと暮らしていると知れば、周囲は色眼鏡で見
る。慰撫のため、というキャッチフレーズに卑猥なものを交え
るのが、猫のリリエンスの常だ。
 多分に漏れず、僕とナツもそういう関係だ。ただ僕は彼女を
愛している。彼女と離れるつもりはない。
 彼女はリリエンスの立場を憂いていた。現状に憤りを感じて
いた。変化を切望していた。意思を現実で行使する必要性を訴

えていた。
 僕は彼女に賛同し、院生のかたわらできる限りのことをしよ
うと動いていた――親の庇護にある自覚もなしに。
 
 
 ナツが死んだのは、卒院をひかえた、春にしてはやけに寒い
日だった。
 父が唐突に帰宅したのだ。
 父は寄り添っていた僕とナツの関係を、正しく――誤解を交
えず理解した。
 ナツは父に射殺された。
 頭を吹き飛ばされたナツは、清掃局が片づけた。








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