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『いずれ早瀬もじくじくと』(日野裕太郎)

判型:文庫版 オンデマンド 238ページ 頒布価格:600円

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ばけものになったおとうとは
むかしからやさしくて
あははとわらう――

おさないころから続く実父の暴力
それから逃れるために
姉弟が選んだ術は――親殺し

天罰覿面
弟は人頭牛身の化けものとなり
姉は逃れようのない絶望のなか
救いを求めて足掻く――

親殺しの姉弟に起こる忌まわしい事態
対処を考えあぐねるうちに、状況はどんどん悪くなっていく。
ホラー長編。

【カテゴリ】

ホラー | 長編 | 姉弟 | 読み切り | 怪談

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【サンプル】

        1
 
 天罰覿面。
 それなりのことをしていれば、まあしかたないな、と思うも
のだ。
 だよねぇ、ねえさん。
 そう清々しい声でいった弟は、親殺しの天罰か、化けものに
なっていた。
 ひとの頭に牛の身体。
 まいったな、と私は吐き捨てる。
 あはは。
 弟の幸哉は笑う。
 ねえさんたら、またそんなかおしてぇ。
 幸哉の声が間延びして聞こえる。
 私は目を閉じ、眉間をもんだ。耳鳴りがする。ひどい頭痛が
していた。
 あれ、ねえさんたら、またあたまいたいの。
 弟が心配そうに訊ねてくる。
 私はうなるような返事をした。
 ねえさん、リラックスしてぇ。

 幸哉はやさしい。昔から。
 牛のひづめが畳をこする音がした。牛の身体になった弟は重
い。
 目を開けると、にじり寄る雄々しい牛の身体がある。気遣わ
しげにくもった弟の顔がある。目が合う。澄んだ瞳に配慮をに
じませた幸哉が、こちらをうかがっていた。
 弟が畳を歩くと跡が残る。青々としていた居間の畳の表面は、
ささくれ、荒れ、手入れのなっていない芝みたいになっている。
無数の棘が植えつけられたようになった畳には、うかつに手を
つくことはできない。
 天罰覿面。
 いったいどうやったら、弟はもとの姿に戻ってくれるのか。
「あんたはどう思ってんの」
 わっかんない。
 多幸感に包まれふわふわした幸哉の声に、私は苛々させられ
る。
「幸哉、そのまんまじゃまずいでしょうが。一生そのままでい
る気なの」
 ──まともに死ねるかも、わからないんだから。
 あえて言葉の後半は呑みこんだ。

 私が言葉をにごすと、幸哉はえへへ、と笑う。笑いながら足
を折り、あっという間にうたた寝をはじめた。
 たとえば、と私はうたた寝をする幸哉を見ながら思う。
 人間だったなら、のどを掻き切れば死ぬだろう。
 牛だったなら、のどを掻き切れば死ぬだろう。
 しかしいまの幸哉は、人間でも牛でもない。
 食事を摂らず、排泄もしない。
 たまに歌い出したり、口を半開きにしてテレビを眺めたり、
かけ算九九をそらんじてみたり、なにやらご満悦な顔をするく
らいしかしていない。
 幸哉が大丈夫でないことくらい、わかっていた。
 話しかければこたえるが、どうにもねじがゆるんで危機感が
ない。
 天罰覿面。
 いったい弟は、まっとうな死を迎えられるのか。
 そう考えてみて、私は頭を振った。まるで自分が幸哉はもと
には戻らないと思っているみたいで、不快になった。
 天罰覿面。
 くそ親父は、くそだったがために子に殺された。
 私たち兄妹に、殺された。

 天罰天罰。
 覿面というには時間がかかったが、神さま仏さまはきっと恒
久の存在なのだろう。はかない短命の人間とおなじ尺度ではか
っては、失礼というものだ。
 天罰が下った、くそ親父を殺した子──こちらに跳ね返って
来た天罰は、弟の姿を変えた。その弟のそば、為す術なくおた
おたしている私。
 これで終わりだろうか?
 終わっていないなら、この先どんな道をどう流れて行くのか。
 うたた寝をしていたはずの幸哉が、私を見下ろしていた。大
きな牛の身体の弟の目線は、すわった私より高かった。
「幸哉、たれてるよ」
 えっ。
「たれてる。口閉じて」
 えへへ。
 飛沫が私の手にかかっていた。
 照れて笑い、幸哉は口からだらしなくこぼれた唾液を、折っ
た前足でぬぐった。
 胸に苦しくて苦いものがこみ上げる。
 洗面所から洗濯機のブザー音が聞こえた。

 干してくる、といい置いて部屋を出て、庭に出る。
 洗濯物を干していると、耳鳴りがすこしやわらいだ。
 ひとり分なら洗濯物はすくないが、念のために弟の服も洗う。
弟に服はいらない。綺麗なのにくり返し洗われる服は、徐々に
色が落ち生地がへたれてきている。
 住まいは僻地だ。
 隣家までは距離がある。隣家であるべきスペースは空き地で、
管理されていない、雑草の生い茂った区画だった。
 我が家は空き地に周囲を囲まれている。
 周囲の空き地は某企業が過去に買い上げ、我が家の建つ場所
も買い上げる計画に入っていたはずだ。
 が、我が家との価格交渉の真っ只中、景気が悪化してしまっ
たのだ。企業は土地を買いつけている場合ではなくなり、あっ
という間に倒産した。一帯の大きな区画が企業のものだったが、
現在では細切れに──民家を建てるに適した大きさで、様々な
不動産会社に管理されているらしい。そしてそれぞれの不動産
会社が土地を売り出しているが、残念ながら買い手は現れてい
ない。
 おかげで、近隣から我が家は孤立しているのだ。
 弟の姿が見えない、と訝しむ隣人はいないのは助かった。し

かしいつどんな視線があるかわからず、念のため幸哉の服も洗
っている次第である。
 幸哉が化けものになる前は、蚊やらなにやらわからぬ虫がわ
いて、苛々させられた空き地だった。
 私の背丈を越えて悠々と夏の風に揺れる雑草に、いまは守ら
れている。
 ねえさぁん。
「なぁに」
 邪険に返した。
 ねえさぁん、ちょっときてぇ。
「なんなのよ」
 いいから、きてぇ。
 早急さのない声に呼ばれ、家に戻る。
 苛立ちにため息をつく私の耳に、はやくぅ、と幸哉の緩慢に
のびる声が届く。
 どこから入ったのか、大きなトノサマバッタが居間を飛びま
わっていた。
 こわいぃ。
 弟は涙目で私を見上げる。
「ずいぶん大きいね」

 トノサマバッタは執拗に弟の周囲を飛んでいる。私の両手ほ
どもあって、手を出すのに躊躇した。
 やだあぁ。
 身をすくませた弟は、バッタの足に叩かれ、か細い悲鳴を上
げる。
 たすけてぇ。
「どこから入ったの、これ」
 しらないぃ。
 どっかやってぇ、と頼む弟の声は、怖がっているくせに、ど
こかのんびりして聞こえた。私を強張らせていた苛立ちや疲労
が、ふっとやわらいだ気がした。
「そんなに騒いでないで、ちょっと待っててよ」
 手近にあったタオルでくるんでつかまえたバッタを、窓から
おもてに放す。
 外気に飛び出したトノサマバッタは、立派な足で跳んだ。吸
いこまれるように草むらに飛びこんで、もう後を追えない。
 息をついた私の耳に、幸哉の鼻歌が届いた。
 バッタにびくびくしていたくせに、もう上機嫌な声で歌って
いる。それがなんの曲だったか、不安定なメロディなので思い
出せない。

 手洗いに立ち、また私が部屋に戻ったときには、歌は途切れ
ていた。
 幸哉は眠っている。
 すやすやと瞑目した顔は、以前と変わらない。
 白い端正な顔を乗せた身体は、黒毛にてりてりと光る立派な
牛──滑稽な姿だ。
 壁のホワイトボードに、幸哉への伝言を残す。
 出かけます、と短い一文だ。
 伝言は、以前はもっと長かった。
 ──どこに行ってなにをする、このくらい時間がかかると思
う、遅くならないようにする。
 私がいない間、ひとりになった幸哉の孤独感を紛らわせるよ
うに──私が気にかけているのだとしらせたいがために、書き
こめるだけ書きこんでいた。
 しかし毎回書いていた文章は、次第に短くなっていった。
 一方通行の伝言は、思いの外むなしい。
 いつかなにも伝言を残さない日が来るのではないか。その日
を思うと、私はすこし気が滅入る。
 なにかあっても、幸哉は私に連絡が取れないのだ。
 弟は電話も使えなければ、閉じた扉も開けられない。

 居間につながる廊下と台所だけが、いまの幸哉の全世界だ。
窮屈だろうと思うが、弟をおもてに出すわけにいかなかった。
背の高い雑草に囲まれていても、ひとの目はどこにひそむかわ
からないのだ。
 ひとに見つかれば、もう弟は安穏と暮らせない。
 不憫に思う気持ちは私の指に力をこめさせた。
 幸哉のためを思うなら、迷ったり半端なことをしていては駄
目だ。
 家中のカーテンはつねに閉めきっている。蛍光灯の光に照ら
される幸哉の横顔は、不健康に青白い。
 ずっと居間にこもっていては、気もふさぐ一方だろう。
 せめて私が横で周囲を監視しながらでも、二階から外を眺め
させてやれないか。そんな仏心を出したこともあった。
 しかし当の幸哉が階段をのぼれなかったため、頓挫してしま
った。
 一階の縁側から外を眺めないか、と誘っても、弟は気乗りし
ない。
 密閉された狭い居間で弟は歌う。なんの曲だったか、もどか
しくなるくらい思い出せない。
 幸哉がひととき安らいだ表情を見せる歌唱の時間、私はつら

い気持ちを噛みしめさせられる。歌うくらいしか、もう弟には
残されていないのかと思ってしまう。認めたくなかった。
 突然身体が牛に変わってしまった弟は、多くを望まない──
ここ最近では、望む頭がないような言動ばかりが目立っている
が。
 居間にいられればいい、と弟は畳にそのまま横たわる。
 布団やクッションでも使わないか、と提案しても、首を振る。
なくていい、とやんわり笑う。昔からそうだった。いらない、
とやんわり笑う。だいじょうぶ、とやんわり笑う。心配しない
で、とやんわり笑う。昔から。そこだけは変わらない。
 それが本当に笑っている顔なのか疑ってしまうほど、幸哉は
ずっと笑っている子だった。
 私は自転車を引っ張り出し、アルバイト先のスーパーへ向か
った。
 仕事はレジ打ちである。近隣ではほかに仕事はのぞめない。
 一帯では元々農業に従事する家が多かったが、一部の土地か
らヒ素が出たことをきっかけに、農業が立ち行かなくなった。

 顔も知らない相手だが、飲食店を建てる目論見だったか、広
い空き地を検査したらヒ素が検出された──はずだ。

 当時私は子供だったし、昔の話すぎて詳細は覚えていない。
しかし新しくできると期待していた店の建設が取りやめになっ
た、と知ったときの落胆は思い出せる。
 ヒ素が検出されたのは飲食店の建設予定地だった空き地だけ
で、検査はその空き地でしかしなかったと聞いている。しかし
一帯の土地すべてが汚染されていると噂が広まり、ゴシップ雑
誌だかなんだかにさほど大きくないが、記事が載ったそうだ。

 問題は、その記事に目を止めた相手だった──国外でヒ素の
被害を訴え、改善のための活動をするNPO団体の目に止まっ
たのである。国内でもヒ素は他人事ではないのだ、とプロパガ
ンダに使われたのは、ヒ素の検出から一年も経たないころだ。

 このあたりの地名は一躍有名となり、作物が売れなくなった。
 生活に困窮するなか、某企業による土地の買い上げが行われ
た。汚染を理由に買い叩かれた、というものもいる。
 作物をつくっても売れない土地、管理だけでも膨大な出費と
人手がいる。企業に感謝する声もあった。
 土地を手放すことで生活を立て直した住人たちの、半数ほど
はここを出て行った。

 私の家はそれらの動きをただ見ていた。
 うちは農家ではなく、土地も売らなかった。
 父の仕事を私たち姉弟は知らない。ふらふらしていたとだけ
記憶にある──昼でも家にいることがあった。出かけると短く
いい残して一週間ほど戻らなかったり、しかし生活費に困った
ことはない。後ろ暗い仕事をしていたのだろうと思う。
 父の死後、私たち姉弟に火の粉がかかる事態が起きていない
のは、幸いなのかもしれない。
 目指すスーパーは、自宅からほど近い。自転車で十五分てい
どの距離である。
 近距離でも、弟を思うと家を空けるのが怖くてたまらない。
しかし働かないわけにはいかないのだ。
 知らない顔の訪れないスーパー、型にはまった接客で、いつ
もと変わらない世間話をしながら働く。
 週に四日、一日に五時間。
 バーコードで商品情報を読み取り、決して多くない買いもの
客をさばきながら、私は過去をなつかしむ。
 以前私は、よその土地でアパートを借りていた。そこから会
社に通勤し、正社員で働いていたのだ。
 しかし父を殺すにあたり、私も──同居していた幸哉も、よ

そでの生活を捨て、生家に戻った。
 幸哉は通っていた大学を休学し、私は退職した。
 高卒で事務職に就いた私には、辞めるのが惜しい環境の職場
だった。給与はほどほどだが、社内の雰囲気がとてもよかった
のである。こればかりは求人広告では判断できない。同等の職
場に出会うのは難しい気がする。
 だが父の存在を消すことと、恵まれた職場とを天秤にかけた
とき、比重は確認するべくもなかった。
 スーパーに買いものに訪れるどの顔も、私の父が古井戸に落
ちて死んだのだと知っている。
 いまだに故人たる父の死を悼む口上を述べるどの顔も、私が
父に深酒をさせ、弟が井戸に落としたとは知らずにいる。
 あまりにあっけなく、父の死は事故死と判じられた。
 借りたアパートを引き払って生家に身を寄せた自分たちを、
後になって私たちは笑ったものだった。
 持病が悪化して歩行に難が出た父を気遣ってみせ、私と弟は
家に戻ったのである。父の隙を狙ってなんとか事故死に見せか
けようと、姉弟で思索していた。
 機会はすぐ訪れた。
 拍子抜けするほど、あっけなく父は片がついた。

 持病のせいで飲酒を控えていた父は、子供が戻って浮かれた
のか──今日だけといって酒を呑んだ。勧めれば勧めただけ酒
を呑み、正体をなくした父は、注げば注いだだけさらに呑んだ。
 まともに歩けない父を井戸に落としたのは幸哉だ。
 手伝えと幸哉はいわなかった。むしろ見るな、と私を遠ざけ
た。
 私は父に触れたくなかったため、弟に甘えて手を貸さなかっ
た。
 井戸の底へと父を落としに出た弟が家に戻るまでの間、私は
家中にある父の持ちものを始末する算段をつけて過ごした。
 一気に処分したら、近所に怪しまれるか。だが明日にも片づ
けてしまいたい。はやくも父を始末した、とそのとき私の気持
ちは高揚し、歓喜していた。もうこの世に父がいた痕跡を──
一瞬たりとも残したくない、と興奮していた。
 戻った幸哉は、子細を話さなかった。
 いつものような穏やかな声で、終わったよ、と弟はやんわり
笑った。
 晴れやかな笑顔だった。
 私は我慢できなくなった。
 井戸に父を確認に行った。

 携帯電話のディスプレイを懐中電灯代わりにし、動かなくな
った父を見る。
 水のすくない井戸の底、弛緩した父の身体は不格好に横たわ
っている。こまかいところは影に沈んでよく見えない。死んで
いるか、私にはわからなかった。息があったとしても、放置す
れば早晩絶命する──目にして、私はさわやかな気持ちになっ
た。
 幼いころから、私たちは父に殴られていた。罵声を浴びせら
れていた。すべて気まぐれに、である。
 幸哉を守るために私は何度も殴られ、幸哉は私を守るために
何度も殴られた。
 まだ私が小学生時分、当時は枯れていなかった井戸に落とさ
れたことが二度ある。
 暗く冷たい井戸のなかは怖い。前後左右、上下の感覚が失せ
るのだ。壁に寄りそっているというのに、それがわからなくな
る。感覚の喪失が起こる。悲鳴や哀願、許しを乞おうとする声
も周囲の石材に吸いこまれて消える。外の音も聞こえなくなっ
てしまう場所だった。その経験のせいか、私は成人してなお水
の溜まった場所が怖い。湯船でも、気を抜くとときどきぞっと
させられる。

 息子の手で井戸に落とされたくそは、その恐怖を味わうこと
なく絶命したらしいと後々警察に知らされた。とても悔しかっ
た。
 その晩はしゃいだ私はなかなか寝つけなかった。しかし朝に
なって、父の姿が見当たらないと通報する段になり、私は高揚
に水をさされてぎょっとすることになった。
 通報を前に、念のため井戸に父の絶命を確認しに行った。
 地面にはなにかを引きずったような跡があった。
 あまりにくっきりとついた痕跡に、私は息を呑んだ。
 父を運んだときの痕跡だった。
 家では幸哉が通報しようとしている、とすぐ気がついた。
 通報は待って、と伝えようとしたが、ときすでに遅し、弟は
近所の駐在所に連絡してしまっていた。
 あわてて私は偽装に走った。はしごやらもの干し竿やらを引
きずって、井戸のまわりにばらまく。いかにも井戸の底に見つ
けた父を助けようとした、そんな態を装おうとした。装わんと
しながら、これは無駄足だとも思っていた。
 ──警察って、鑑識って、馬鹿じゃないはず。いつ引きずっ
た跡かとか、なにを引きずったとか、そんなの調べられたらお
しまいだよね。わかっちゃうよね。墓穴掘ってる? どうにか

なる? 最初の跡って消せてる? どのくらいの精度で暴かれ
るものなの?
 心臓が胸のうちで暴れていた。胸を破って飛び出して来るん
じゃないか、と疑ってしまうほど、ひどい動悸だった。
 吐き気がするような緊張は、父への憎悪を新たにさせた──
殺したことに、後悔はまったくなかった。
 駐在所からやって来た田所巡査が自転車で現れたのを見たと
き、私は悲鳴を上げそうになった。父の顔が脳裏をよぎる。の
んきに酒を飲んでいた顔だ。くそじじい、と私は心のなかで叫
ぶ。だが心底怯えると、声も出て来ないものだった。
 井戸を中心とした状況に、巡査は何度かすばやく視線を走ら
せた。
 そして彼は、まっすぐ向かった井戸をのぞきこんだ。
「あー、こりゃいかんね」
 五十路の巡査は、甲高い女性的な声を上げた。
「簡単なふたでいいから、井戸におおいして、っていってたで
しょ、これ」
 井戸のふちを叩き、狸顔の巡査は大仰なため息をつく。
「残念だったね、おやじさん」
「……足を悪くしてたから、ふたをつくらなくても大丈夫かと

思ってたんです。使わないだろう、って」
 幸哉の声は静かだ。
「でもさ、近所の子供でも落ちたりしたら、おおごとになっち
ゃうよ、これ」
 私は目の前の巡査が、父を嫌っていたことを思い出した。
 先ほどのぞいたとき、私は見ていた──井戸に落ちた父の頭
は割れ、絶命しているのは明らかだ。
「まあね、落ちたのが子供じゃなくてよかったよ。それにして
も、散らかしたねぇ。あわてたもんだ」
 巡査は足元に散らばっているはしごを、革靴のつまさきでつ
つく。実子を前にのんびり話している巡査の態度は──発言は、
ともすれば異常だ。
「もう駄目でしょうか」
 幸哉の声に、巡査はあらためて井戸をのぞく。
「ううん、そうだねぇ、ご愁傷さまです」
 うめくように彼はいった。
「それにしてもおやじさん、井戸でなにしてたんだか」
「さあ。昨日はちょっと……お酒を呑んでて」
「呑んでいいんだっけか? おやじさん持病まずかったんでし
ょ?」

「僕だけじゃなくて、姉さんも帰って来たんで、ちょっとだけ
って」
「ああ──気ぃ抜いちゃったんだねぇ」
 落ち着いて巡査と話す幸哉の顔を見ながら、私は釈然としな
いものを覚える。弟に罪から逃げる気がないのではないか、と
そのとき疑った。
 父を引きずった跡を残したまま通報した弟。
 やけに冷静で、私のようにうろたえることのない弟。
 父の屍を負って歩いた線のほそい弟は、白い顔をして井戸の
方を向いていた。
「見ないほうがいいよ、楽しいもんじゃなしに。月子ちゃん、
もしかして見ちゃったんじゃないの? 気分悪くない?」
 庭のもの干し台に背を預ける私に、巡査は家を指し示した。
「休んでな、こっちは幸哉くんと俺に任せてさ」
「姉さん、そうしなよ」
 幸哉にもうながされ、私は断る言葉を見つけられなかった。
 一緒に父を始末しようと手を組んだのに、楽はできない──
懸命に笑顔をつくって井戸に寄ったが、ふらつく足元の私に幸
哉が手を差し出す。
「ふらふらしてて、危ないよ。あとは任せて」

「でも」
「いいから」
 弟の肩越し、巡査と目が合った。
 巡査は口角を上げて笑った。なにかに似た顔だ。もともと狸
顔だが、それと違う卑しい表情を読み取った。
 笑みのかたちを崩さず、巡査はうなずく。
「用があったら呼ぶから。幸哉くんに任せておきな。こういう
のは、男手に任せておきなさい」
 幸哉もうなずいた。
 井戸の周辺に雑多に散らばった荷物。竿やはしごを引きずっ
てできた地面の溝は、長物が井戸に這って行った跡にも見えた。
 私は居間に戻った。頭がぐらぐらしているが、身を横たえる
気になれない。父が使っていた座卓や座布団に触れたくなかっ
た。
 あれは死んだ──
 のぞいたまるい井戸の底、生活用水として使えるほど潤沢に
水があったのは過去のこと。
 いまは底にちょっと水のある、単なる湿った垂直の穴だ。
 おそらく、頭や身体を打ちながら落ちて行ったのだろう──
父は血の気を失い、白くて瀬戸物のような顔をしていた。そし

て赤黒くぬれていた。
 私はちょっとだけ楽しくなった。あれは死んだのだ。幼いこ
ろから嫌いだった。憎んでいた。私たち姉弟を踏みつけて喜ん
でいたあれは死んだ。
 楽しかったが笑えなかった。
 ひどい吐き気がしていた。
 窓をすこし引いて、私は庭を見た。
 井戸を前に、幸哉と巡査が話しこんでいる。自然と背筋がの
びた。
 巡査の視線が、事件の証拠を射貫いているように感じる。私
たち姉弟の殺意を知っている気がした。
 私たちの隠匿に意味はなく、とっくにすべてが日の当たる場
所に引き出されていると思った。
 巡査が気安く幸哉の肩を叩く。
 幸哉はうなずいた。
 疲れを顔に浮かべ、やんわりと笑む──だめだよ幸哉、気を
抜かないで。
 私は口をおおう。巡査が味方のはずがない。巡査は罪を暴く
のが仕事なのだ。お願いだから、父の突然の死に驚く息子の顔
を続けて。お願い、そんなふうに微笑んだりしないで。

 私は身をかたくし、息をひそめて庭を見つめていた。
 きっと父を殺したのが私たちだとばれてしまう。もうばれて
いるに違いない。
 あいつのせいで私たちは裁かれることになる。気のちいさい
ものが犯罪を犯したところで、隠し通すなど土台無理なのだ。
私はわき起こる身体のふるえに、そう痛感していた。
 しかし私の緊張や焦燥をよそに、父はあっさり事故死で片づ
いた。
 その現実に、私はなかなか馴染めなかった。
 つねに幸哉はやんわり笑っていた。
 信じていいのだと理解するのに、時間がかかった。
 現実が私に浸透したときの、あの歓びは凄まじいものだった。
 万歳──だが快哉が快哉であった期間は短かった。
 父の四十九日を境に、幸哉の姿は変わってしまったのだから。






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