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『遠くで猫は苛々している』(日野裕太郎・伊東朔巳)

判型:文庫版 オンデマンド 88ページ 頒布価格:400円

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帰宅した女子高生さえは
母の不義を目撃してしまう
衝動的に家に背を向け
深夜バスで見知らぬ土地へ
見知らぬ道、見知らぬ土地
見知らぬひとびととすれ違う
道はどこまでも続く

目を背けていたものと向き合うか
さえは決断のときを迎える

【カテゴリ】

中編 | 少女 | 家族 | 現代

【ブログや掲示板で取り上げていただきました】

同人小説感想ブログ
ライトな文体とどっしり安定した構成力が素晴らしい純文学小説。いい意味で読者を裏切らない展開なので、心を落ち着けてゆったり読める。

【サンプル】

        1
 
 帰宅してみると、母が男を連れこんでいた。
 さえはしばし凍りついたが、耳にこびりつくような嬌声や物
音から逃げるように動き出した。
 テーブルに置きっぱなしになっていた母のカバンから財布を
つかみ、そっとおもてに引き返す。
 背中を預けた玄関ドアの向こう、母と男が仲良くしている。
ガンガンと頭痛がしていた。日々過ごしたリビングなのに、も
うドアの向こうにある空間が自分の住まいだと感じられなくな
っていた。汚らしい。
 夕方の冷たい空気のなか、さえは財布を検分した。
 よけいな保険証やポイントカードなどは、まるごと自宅の郵
便受けにつっこんだ。玄関灯の乏しい光の下、財布を回転させ
て検分する。ちょっと年寄り臭いデザインだったが、まだ新し
い。その革の財布はあざやかな赤である。ぐっと力をこめてに
ぎると、爪の先端が沈む。なんとなくその感覚を気に入って、
さえはカバンに財布を入れて歩き出した。
 夜と呼んで差支えない時間が迫り、空はじわりと黒く染めら
れていく。

 さえは駅に向かった。途中から自然と走り出していた。カバ
ンにぶら下げたぬいぐるみのストラップが、視界のはしで大き
く跳ねている。
 住宅地を離れ、駅が近づくにつれて、ひとの数が増えていっ
た。さえは走るのを止める。ゆっくり呼吸を整えながらも強い
空腹に気づき、ため息をついた。
 たくさんの降車客が吐き出される駅に着くと、さえは案内板
を見上げた。てきとうに切符を買うつもりだった。持ち出した
母の金を使いたかった。取り出した赤い財布の革はまだかたく、
さえはまた爪を立ててみる。爪を立てたまま、動かす。独特の
音がした。引っ掻くと革は不快な感触がする。
 行き先を選ぶのが面倒になって、一番高い切符を選んだ。母
が持ち歩くものである赤い財布には、たくさんの紙幣がおさま
っている。そのことにいまさら驚いていた。
 さえは電車に乗る。混んでいた。たくさんの酒臭いおとなの
なか、車窓に映りこんでいる姿──高校の制服を着たさえはひ
どく浮いている。違和感異物感。さえはそっと息を吐く。
 乗客の大半が降りる大きな駅で、さえも押されるまま電車を
降りた。
 人ごみに流され、改札を出、ロータリーに路線バスが止まっ

ているのを見つける。
 さえはバスに乗りこんだ。運転手が怪訝そうな顔を隠そうと
もしないので、軽く会釈をする。
「どこまで?」
 運転手の口調はぶっきらぼうだ。
 乗車するときにちらりと見た運行図、ナントカ病院と書いて
あった。
「病院まで」
「お見舞い?」
「危篤なんです。母が」
「大変だね」
 急に運転手の声がやわらかくなった。
 さえは後ろの方の座席にすわる。
 バスの乗客はさえだけだった。
 バスの前方、電光掲示板に表示されている路線図をいまさら
眺めると、案外遠くまで運行しているらしい。病院はかなり先、
終点に近い。病院の名を出した手前、そこまで乗っていなけれ
ばならない。適当な発言を後悔した。
 アイドリングをはじめたバスの振動のなか、さえは倦怠感を
自覚する。

 部活の疲れだ。在籍している水泳部は、冬に入ろうというこ
の時期、陸上で黙々とトレーニングを続ける。
 ほんとうは、今日は帰宅が遅くなる予定だった。
 トレーニングの後、過去の水泳大会を録画したビデオを使っ
て、意見交換会をする予定だったのだ。だが学校のビデオデッ
キの調子が悪く、取り止めになった。
 予定よりはやく帰宅したさえは、母が男を連れこみ、楽しん
でいるところに出くわす羽目になったのだ。
 母は──母たちは、さえの帰宅に気づいていなかった。 
 財布がなくなっているのだから、いずれ気づく。
 とりあえずさえは携帯電話の電源を切った。
 男を連れこんでいたのなら、今日父は遅くなる予定なのだろ
う。父に連絡しようか──あいつとまだ切れてないよ、とでも。
 母の浮気が発覚したのは、昨年のことだ。
 両親は話し合いの場を何度も持った。何度も何度も。その度
憔悴した顔をし、怒鳴り合ったのか声を涸らしていた。
「おまえのために、もう一度やり直すよ」
 かたい表情でそう話した両親を思い出した。カバンに差しこ
んだままの手で、さえは母の財布をつかむ。爪を立てる。引っ
掻く。

 自分のため、という言葉がそのときうれしかったし、反吐が
出るほどむかついた。
 そして反故にされた。
 母がお楽しみだったのは、リビングのソファの上だ。最中の
母と男の顔を、さえは目撃してしまっていた。まさしくまぶた
に焼きつき、ちょっとした拍子に思い起こされてしまう。さえ
はバスの天井を見上げる。死ね、と毒づこうとしたら、大荷物
の女性がバスに乗りこんで来た。
 リビングのソファは、テレビを見るときにいつもすわってい
た。
 これまでにも母たちに使われていたのか──さえは気に入っ
ていた場所が、じつはとんでもなく汚い場所だったのだ、と思
い知らされた。
 バスが動き出す。
 はじめて乗る路線、景色はあっという間に闇に飲まれる。街
灯が意味を成さないほど暗い。さえは目をこらした。バスはど
んどん民家の建ち並ぶエリアに入る。ベッドタウンか──それ
なら、どうしてこんなにバスは空いているのだろう。
 さえは車窓に映る自分越しに流れる家並みを確認した。
 民家は並んでいるが、住人がすくないのだ、とわかるのはす

ぐだった。きれいな一戸建てが続く。どの窓にも明かりはなく、
判を押したように個性のない軒先、枯葉が吹きだまっている。
だから暗いのだ。
 バスの過ぎる速度では読み取れない看板を、さえは目で追う。
 ひとつ通り過ぎると、またひとつ。
 たまに住人のいる家があるが、あたりが真っ暗なため、窓か
らもれる灯りがやけに寒々しい。
 車内のもうひとりの女性客は、首を前に倒して寝入っている。
彼女の足元の大きなカバンいびつにふくらみ、チャックがしま
らないほど荷物が詰めてあった。
 さえは路線図を見る。
 ナントカニュータウン、ナントカ小学校前、ナントカ出張所
前。建ち並んでいた無人の家、この先買い手がついたら、バス
もひとであふれるだろうか。さえには現実味がない。模型のな
かをバスが進むような錯覚があった。建設中の、
 巨大な建築中の建物の前をバスは通り過ぎた。車内アナウン
スが、ショッピングセンターだと教える。防音と書かれたネッ
トでおおわれていた。
 もう一度路線図を見る。蛇行する路線、住人のニーズを考え
た道行きだ。

 ずっと先、終点のすこし前にナントカ病院がある。
 疲れていたが、眠気は訪れなかった。
 寝入っている女性のカバンから、ポーチがのぞいた。さっき
は見えなかった。バスが振動すると、ポーチがちょっとずつ顔
を出す。誰も乗りこまず、誰も降りない。さえの知るどのバス
より、スピードが出ていた。
 一際大きくバスが揺れた。
 女性がびくっと身体をふるわせ、目を覚ました。すぐカバン
から落ちそうなポーチに気がついて、ぞんざいな手つきでカバ
ンに押しこむ。素地に近いその動きに、さえは目を逸らした。
車窓に顔を向ける。
 遠く、大きな光が見えた。
 さきほどのショッピングセンターよりも大きい。
 病院だ。
 その背後に山らしき影が見える。
 到着してからどうするか、考えていなかった。バスが振動す
る。一瞥すると、女性は再び寝入っていた。
 到着するまでバスは一度も停まらなかった。
 密閉された──他人しかいない空間は、さえには心地よかっ
た。

 疲労がゆっくりなじんで全身の力が抜けはじめたころ、バス
は病院の正面にある停留所に停まった。
 降車精算で地上に出ると、ひどく寒かった。先に降りていた
女性は、重量の感じられるカバンを提げて早足に行く。バスが
発車する音を耳に、さえは彼女の後を距離を置いて歩き出した。
 病院の正面ロビーは真っ暗だった。女性はせかせかと身を縮
めて裏手へ向かう。
 彼女のカバンからは、またポーチが顔をのぞかせていた。
 ふと、あのポーチが落ちればいいのに、とさえは思う。風は
ないのに、さえも女性も同時に身体をふるわせた。あまりにタ
イミングが合っているので、さえは笑いそうになる。背後でさ
えが笑いを噛み殺しているなんて、女性は知る由もない。それ
がなおのことおかしく、さえは笑いをこらえた。
 病院の裏手にはちいさな入り口があった。白い灯りに吸い寄
せられるように、女性が小走りになる。とうとうポーチが落ち
た。女性は気づかず、そのまま自動ドアに入って行く。
 さえは走って拾い、女性にならって裏口に飛びこんだ。
「あの」
 そんなに大きな声でもないのに、女性は飛び上がるようにし
てふり返った。さえを見る目が見開かれている。彼女は疲れた

顔をしていて、三十路くらいの格好をしているのに、四十路く
らいに見えた。
 脅かしてしまったか──さえはなんだか悪いことをした気分
になった。
「これ」
 差し出すと、女性の表情が打って変わってゆるんだ。すると
まだ三十路にも届かない印象になった。
「ありがとう」
 ポーチを受け取った女性は、もう一度礼をいった。また小走
りに廊下を行き、角を曲がる。さえは彼女の足音が聞こえなく
なるまで、そこに立ち尽くした。
 ひとり白い廊下で、病院にいる自分がひどく場違いだ、とさ
えは戸惑っていた。
 バス通りに引き返し、真っ暗な道を奥へと進んだ。空腹感が
胃に染みついて、疼痛を訴えている。
「あーあ」
 人気のない道で、わざわざ声に出してため息をつく。
 剪定されていない街路樹がさえを見下ろし、道に敷き詰めら
れたブロックの隙間からは雑草が生えている。病院では感じな
かった、不気味だというおそれをはじめて抱いた。

 携帯電話を取り出し、さえは電源を入れる。
 母からの着信履歴やメールを予測していたのだが、一切なか
った。母と男を見てから三時間ばかり経っている。気づいてい
ないか。気づいていたとしても、対応の取り方を考えているの
か。
 さえは不愉快になっていた。
 父のメールアドレスに、『かえりたきない』と打ち間違った
メールを送信する。
 返信ははやかった。
『どうした?』
 さえは眉間にしわをつくる。何度も打ち損じ、父にメールを
打つ。短い文章なのにとても時間がかかった。途中途中、予測
変換に絵文字が現れ、さえを苛立たせる。
『帰らない。お金持って出た』
『なにかあった?』
『あいつら別れてない』
 メールの返事を待っていると、電話が鳴った。暗い道に、バ
イブのふるえる音が大きく聞こえた。
 父からの着信だったが、さえは出たくなかった。出られなか
った。さえは泣き出していた。しゃくり上げながら、携帯電話

の電源を落とした。
 さえは歩き、そして泣いた。
 タイツの下、汗ばむほど歩く。遠くに明かりが見えた。コン
ビニだ。道には誰もおらず、一瞬幻かと思う。一度光を確認す
ると、そこを目指すのを当然だとでもいうように、さえの足は
そちらをまっすぐ目指しはじめていた。
 コンビニはあまり見かけたことのない種類の看板を掲げてい
た。たどり着いたころにはさえは泣き止んでいて、導かれるま
ま店内に入った。
 呆けるほど店内は暖かい。陳列棚におにぎりやサンドイッチ
があって、さえは金額を気にせずたくさん買った。老人といっ
て差し支えない年齢の店員が、レジを打つ。彼が話しかけてき
たとき、さえはうつむいていた。
「……お見舞いに来たの?」
 鼻をすすると、老人は静かに息を吐いた。
「病院まで、気をつけて行きなさい。このへん変なの住んでな
いけど、やっぱり暗いからね。転ばないようにね」
 ありがとうございます、とつぶやくと、老人はうなずいた。
 店を出てすこし歩くと、ふっとあたりが暗くなった。ふり向
いた先、コンビニの照明が落とされていた。

 店先に出ていた老人と目が合った気がして、さえは会釈した。
老人が手を振る。
 歩きながら、さえはおにぎりをかじった。米の甘みが口に広
がったとたん、さえはまた泣きはじめた。
 食べるか泣くか迷い、さえはおにぎりを手にしたまま泣くこ
とにした。
 夜道にみっともない泣き声が吸いこまれて行く。
 呼吸も絶え絶えになって、どうしてこんなに泣いているのか、
自分でもわからなくなっていた。
 










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