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『私は聞こえます』(日野裕太郎)

判型:文庫版 コピー 16ページ 頒布価格:100円

自室で仰臥し、眺める天井。
あちらこちらから聞こえてくる音、そこにあるもの思いを馳せながら、じっと耳をかたむける。

【カテゴリ】

短編 | 現代 | サスペンス | シリアス | 読みきり | ホラー

【サンプル】

 ごん、どばん。
 そんな音を立てるのは、四階に住む安藤さんだ。
 老年といって差し支えのない彼女は、容赦ない動きでドアを
開閉する。
 いっそ男性的ともいえる激しい動きだが、安藤さんは穏やか
な顔をしたご婦人だ。 ごん、どばん。
 安藤さんのご家族は、成人して自立したきり帰ってこない息
子さんのみである。行き来がないかというとそうでもないらし
く、一度道で行き会った安藤さんに、孫と息子夫婦を撮影した
のだ、と携帯電話の画面を見せてもらったことがある。
 安藤さんはさみしい独居老人扱いされていたため、私は内心、
なんだそんなことないじゃない、と思ってしまった。
 私の考えを読み取ったのか、安藤さんはちょっとひとの悪い
顔をして笑った。
 ――でも帰ってこないのよ、俺は所帯を持ったんだから、も
うあそこは母さんの家でしょ、っていって帰ってこないの、お
嫁さんもなにもいわないし、きっともう帰ってこないのよ――

 よそのお宅のことだ、なにがあったのかはわからない。
 だがあのとき、確かに安藤さんは怒っていた。

 笑顔のなか、双眸が冷たい怒りにふるえていた。
 ごん、どばん。
 ひとりの家の玄関を開け、ひとりの暮らしをまざまざと見せ
つけられ、ひとりで暮らすための部屋に入らねばならないこと
に、安藤さんは怒っているのではないか。
 あの音を聞くと、私はそんなことを考える。
 ごん、どばん。
 
  ●
 
 こっこっこっこっ。
 そんな音を立てるのは、三階に住む猪原さんだ。
 すっかり背中の曲がった猪原さんが七十歳だと知ったとき、
てっきりもっと年が行っていると思っていた私は、とても驚い
たものだった。
 杖を手放せず、部屋のなかでも独特の音を立てて移動する。
杖が床を叩くたびに、軽快だが耳につき、時折うっとおしくな
る音が聞こえてくる。
 こっこっこっこっ。
 腰が曲がってしまっている猪原さんだが、はたして周囲がち

ゃんと見えているのかわからなかった。しかし杖が立てる軽や
かな音はどこか楽しげで、うつむき地面を向いた――影になっ
た顔に浮かぶのは、きっと温厚そうなものなのだろう、と私は
想像していた。
 こっこっこっこっ。
 猪原さんとおなじ三階には、小学生の男の子がいた。
 悪ガキで、悪戯というには辛辣なことをする。そういう年齢
だから仕方ない。みんなそう口を揃えた。口を揃えてそういう
ことで、誰かが率先して悪ガキ氏を叱る空気が引っこんでしま
っていた。
 こっこっこっこっ。
 おなじ階に住んでいるということもあり、猪原さんは悪ガキ
氏の格好のターゲットになってしまった。
 杖をついて歩く猪原さんの後を、にわとりよろしくコッコ、
コッコ、と口を尖らせながら悪ガキ氏は歩いた。猪原さんが注
意しても止めず、しかしその注意する声は温厚そうで真剣味に
欠けていた。
 悪ガキ氏が猪原さんについてまわるのをやめたのは、怪我を
したからだった。
 ある日階段から落ちて気を失っているところを、ご近所さん

が見つけたのだ。
 足の骨を折っていたが、悪ガキ氏の回復ははやかった。
 足を滑らせて落ちたらしくて、と親御さんがついたため息に、
私は苦笑した。口には出さなかったが、怪我に懲りて落ち着き
を持ってくれたらいい――そんなことを考えた。
 悪ガキ氏の悪戯はそれ以降なりを潜め、すっかりおとなしく
なった。中学にも上がることだし、相応の落ち着きを持ったの
だろう。
 ある日、下校中の悪ガキ氏に行き会い、私は挨拶をした。
 会釈しようとした悪ガキ氏はぎょっとした顔をし、きびすを
返すとどこかに行ってしまった。
 なにあれ。
 私はひとりつぶやいた。
 こっこっこっこっ。
 背中から聞こえた音に、私は振り返った。
 数歩離れたところにいる猪原さんが、悪ガキ氏を見送ってい
た。
 猪原さんが顔を上げていると、無理をしているようにも見え
てしまう。そんな体勢で悪ガキ氏を見送っている猪原さんの顔
は、私が想像していたような穏やかなものではなかった。

 怒りがそこにあった。
 悪ガキ氏の姿が見えなくなると、猪原さんはいつもの音を立
てて歩いていった。
 こっこっこっこっ。
 















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