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『おちたかみさまはどうぞならくへ』(日野裕太郎・みさわりょう)

判型:文庫版 オンデマンド 74ページ 頒布価格:400円

そこかしこにある『汚泥』
ほとんどのひとの目にそれは見えず、しかし芝田は『汚泥』を撮影できた
写真を顧客に売って生活をするなか、支援者になりたいというN氏と、ダムに沈む予定の廃村に出かけることになる

過去その村で芝田は神と出会っていた――

【カテゴリ】

短編 | ホラー | 呪い | 暗澹

【サンプル】

       1
 
 ―ああ、あれは神さまだ。
 日影で汗をぬぐって水筒を取り出していた芝田は、すっと目
を逸らした。
 一目でそうだとわかった。
 神さまのような強い存在は、あまり見ない方がいい。下手を
したら、持っていかれていしまう。
 水筒の麦茶を飲もうとして失敗し、取り落としてしまった。
 足の間でそれは止まり、とぽとぽと中身がこぼれていく。
 拾おうと身をかがめた芝田は、そのままずるずると木の幹に
背を預けたすわりこんでいた。
 軽いめまいと倦怠感のせいだ。
 日差しの下、長々と歩きすぎてしまったようだ。
 とちゅうでもっとこまめに水分を取ればよかったのだが、追
い立てられるような歩みのなか、そんな考えは浮かばなかった。
足元にできた麦茶のしみを見て、芝田はため息をつく。
 うつむき目を閉じた芝田は、ふと追い立てられていたのでは
なく、呼ばれてきたのではないか、と思いついていた。
 ―たとえば、あの神さまに。

 閉じたまぶたの闇、あの神さまが近づいてくる姿が見えた気
がした。
 その姿を裏づけるように、気配は近づいている。
 芝田を守る日影をつくった大樹の周囲を、それはまわりはじ
めていた。
 気配に耳をそばだてるようにする時間は、芝田にとってつら
いものでしかない。
 怖いのだ。
 もう見たくない。
 だがこのままではいられない。
 意を決して目を上げた芝田は、視界のはしで動く姿をとらえ
ていた。
 醜い神さまだ。
 それはこのさびれた神社に入ったときから、芝田の方に徐々
に近づいていた。
 いびつで、淀み、どことなく未練がましい。
 持っていかれたくない。
 もし持っていかれるとしたら、なにを持っていかれるだろう。
「にげて」
 声がして、芝田は顔を上げた。

 呼吸が止まる。
 至近距離に、醜い顔があった。それが顔として機能したのは、
どのくらい昔のことだろう。そもそも顔などいらなかった、で
きそこないなのか。
 目鼻立ちなどない。
 潰れた泥団子のようなそれは、それでも確かにその神さまの
顔だった。
 縊死体のようにずるりとのびた首があり、幼児の下手な落書
きのようないびつな手足がある。なにも身に着けていないが、
神さまが男性なのか女性なのか、それさえもわからなかった。

 ずるり、とそれが動き、芝田は目を逸らした。
「はやく、にげて」
 声はそちらから聞こえていた。
 芝田は眼球だけを動かす。
 赤茶けた神さまの身体に隠れるようにして、中学生の芝田と
同世代くらいの痩せた少女が立っている。
 顔立ちの整った少女だ。泣きぼくろがあり、しかしそれ以上
のことを確認することもできない。
 芝田はすぐ目を伏せ、神さまを視界から追い出した。少女の

前にいる神さまを長く見るのは怖い。
「にげて」
 まだおさなさのある少女の声が重なり、芝田は返事をしそう
になった。応でも否でもなく、放って置いてほしいと叫びそう
になる。だが芝田の舌はうまく動かなかった。ほそい音を立て
て息を吐いただけだ。
「逃げて」
 急に芝田は、声のいうとおりだと悟った。
 ここにいない方がいい。さっさと逃げてしまった方がいい。
 決意し覚悟をかためて顔を上げると、先ほどより近い場所に
神さまの顔がある。
 ひ、と短くちいさな悲鳴が出た。
 その音を確かめようとでもいうのか、醜い神さまは芝田に顔
を近づけてきた。
 目と鼻の先にある醜怪なそれが、ぐずぐずとなにかを嗅ごう
と動く。
 顔を背けた芝田の意気地は、すっかりくじけていた。逃げろ
といわれなくとも逃げるつもりになっているのに、足に力が入
らなくなっている。
「はやく」

 うつむいた頭に急かす声がかかり、焦りがつのった。
 うるさいと声を荒げそうになってしまう。
 ひざが笑い、ひたいから流れ落ちた汗が地面に落ちるのを芝
田は見送った。
 
        ●
 
 ほかの人々の目には、それらは映ることがない。
 しかし芝田はその場に残っているものだとか、誰かを憎む黒
いものだとか、そんなものがわかってしまう。
 ていどの差はあれ、どこにでもある。
 駅の改札に、コンビニの棚に、横断歩道の二歩目の地面に。
 いくらでもある。
 だから芝田はまともな職に就くのはあきらめた。
 かわりに、カメラを手に出かける。
 そういったものの存在を知っていたり、信じている人間たち
がいるのだ。そしてそれを写し取りたくても、写し取れること
のできない。
 芝田は写し取ることができた。
 彼らに代わり、芝田は写し取れる場所を渡り歩く。

 素人であり、カメラの腕などない。
 禍々しいものを写し取るときに、天性の才も真摯な姿勢もひ
たむきな熱意もいらなかった。
 美しい精錬としたものを写し取ろうとするなら、それに見合
った腕がいるかもしれない。
 芝田がのぞきこむファインダーにあるものは、そんな上等な
ものではないのだ。
 いやになるようなものが、四角いファインダーに鎮座する。
 シャッターを切る。
 芝田はそれを印画紙に焼きつけ、欲しがる相手に届ける。
 顧客には金持ちが多かった。金持ちでなくとも、残滓のおぞ
ましさに胸をときめかせ、大枚をつぎこむことに迷いのないも
のたちだ。
 彼らは撮影現場には同行しない―させない。撮影した場所の
情報を、芝田は与えない。汚泥は現れ、消える。それが定住す
るおぞましい場所は、すでに人間から自然と忌避されている。
もちろん芝田も例外ではなく、避けて行動していた。
 顧客たちは自分の部屋や図書館で、写真を元に様々想像を巡
らせるそうだ。
 そこがどこなのか、なにがあったのか、いまそこを歩くもの

たちになにか影響はあるのか。ときには写真に写ったものから、
場所を特定できるという。
 そのときの喜びはひとしおで、彼らはそんなふうに一枚の写
真を愉しむ。過去の惨劇や、汚泥の由来、それらは彼らにとっ
てこの上ない愉快な思索のようだ。
 みな芝田自身に興味を持たなかった。
 芝田は自分は写真家の先生の手伝いをしているものだ、と話
している。
 先生は感覚を研ぎ澄ますために、他人との接触を避けていら
っしゃるので、人前には出ようとなさらないのです、と。
 先生は決して名乗らない。世俗を避け、唯一の窓口が芝田だ
―そう話すと、扱うものが扱うものなだけに、顧客たちは信じ
た。
 写真を届けに現れる芝田は、ただの運搬人にしか見えないの
だろう。おぞましいものを写し取れるとは思われない―たとえ
どんな人物でも、提示する汚泥を撮影できるとは思われないは
ずだ。
 芝田は部屋の押入を写真の現像をするべく改造した暗室で、
流れ落ちてくる汗をぬぐう。ふすまの向こうはエアコンを効か
せているが、閉じ切った暗室にまでは冷房は届かない。

 現像液の酸っぱく重苦しいにおいのなか、印画紙に浮かび上
がるものに芝田は目を凝らす。
 並べて置いた薬液で満ちたバットのなか、黒く黒くそれは浮
かんだ。
 浮かび上がった歪みを印画紙に定着させるべく、現像液のバ
ットからそれを引き出した。
 そしてとなりの定着液のバットへ入れる。
 適当にあり合わせの道具ではじめた芝田の暗室は、菜箸や物
置から出てきた平べったいバットを使っている。あり合わせの
―即席の暗室に、それはよくなじんでいた。
 たこ糸に洗濯ばさみで印画紙を吊るし、自分で設置した赤い
照明の下、それらの出来を確認する。
 他人の目には映らない汚泥がそこに現れていて、芝田はなぜ
そこに汚泥が現れたのか、原因を考えそうになった。
 誰にも頼めない、自分で現像するしかないそれらを前に、芝
田はつねに無心であろうとする。
 淀みや歪みや汚泥に心をかたむけそうになったら、芝田はそ
れらを札だと考えるようにしていた。
 写真は一万円札に化ける。何枚もの札に。
 そのために芝田は撮影するのだ。現像し売り渡す。自分に縁

もゆかりもない汚泥の体を為した暗闇たちを、他人に引き渡す。
 汗だくになって暗室を出てみると、エアコンで冷えた部屋に
は西日が差しこんでいた。
 半ば開かれていたカーテンを締め、ランプが点滅しているス
マホを手に取る。
 留守番電話にメッセージが残っている。
 お得意さまのひとりである、N氏だった。
 












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