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『惑わしの怪人といつわりの花嫁』(日野裕太郎・ハルノブ)

判型:文庫版 コピー 266ページ 頒布価格:600円

顔も知らない
家同士の決めた婚約者が亡くなった

だが政略結婚のためその死は隠され
予定通りに挙式は執り行われる
式の後寡婦になると決まっている
貴族の子女トゥッツィリアは
父の命令により
一時修道院に身を寄せることに

そこで怪人と囁かれる男と出会って……


ヒストリカルティーンズラブ小説

【カテゴリ】

ファンタジー | ティーンズラブ | 長編 | 恋愛 | 貴族 | R18

【サンプル】

        1
 
 ランタンの光に照らされたその姿に、トゥッツィリアは息を
飲んだ。
 ほかにひとの姿があるとは思いもしなかった。
 この時間は教会の誰も彼もが、各自にあてがわれた部屋で祈
りを捧げているはずだったのだ。
 誰かと行き合うわけがなく、だからトゥッツィリアはひとり
教会内を散歩するため、間借りしている一階の部屋を出たのだ
った。
 回廊の乏しい照明のなか、不気味さの漂う建物を抜き足で進
む。緊張するがわくわくした。
 屋外に出ると澄んだ空気を胸いっぱいに吸いこみ、解放感か
らトゥッツィリアの足取りは軽くなった。
 足は整えられた庭園へと向いた。昼の陽光の下では、丹念に
手入れされた花々の揺れる美しい庭園だ。闇に沈んだ庭園はど
んな姿かと、トゥッツィリアはでこぼこの道を歩いていた。
 教会の修道士たちが暮らす建物を離れると、解放感はさらに
強まりトゥッツィリアは上機嫌になっていた。
 小道を抜けていった庭園に明かりはなく、昼には美しい花弁

を揺らす花々の顔はどれも判然としなかった。庭園の奥まった
部分、薬草園につながる道がある。以前薬草園をのぞいたとき
は、これから苗を植える予定である、と素人のトゥッツィリア
でもわかる状態で、畝だけが整えられていた。
 いまはもう、なにか育てはじめているかもしれない。
 闇のなか、トゥッツィリアはそちらの道を進んだ。
 暗くこれといってなにも見ることのできない薬草園は、周囲
に塀がめぐらされているためか、しめった草花のにおいが立ち
こめている。トゥッツィリアには芳香に感じられた。
 そこにうっそりとした明かりを手に現れたのは、上背のある
修道士だった。
 異様な風体で、教会が世話する孤児たちが、影で「怪人」と
囁き合っている男である。
 これまでに二度ほど姿を見かけたことがあって、トゥッツィ
リアの目は彼を異名通りだととらえていた。
 いまも薬草園に立つその姿は、孤児たちが囁くとおり、怪人
そのものに映った。
 裾の長い外套は修道士たちが身に着けるもので、肩口につい
ているフードを彼は目深に被っている。そこからのぞくはずの
顔は白くのっぺりした仮面に隠され、しかも手には手袋がはめ

られていた。素肌の一切をその怪人は隠している。
 夕暮れなどとうに過ぎ、闇があたりを浸食している時刻であ
る。
 暗い薬草園では、月と星、怪人の持つランタンだけが頼りと
なっていた。
 十分といえない光源に浮き上がるような怪人の姿は、トゥッ
ツィリアには物珍しく、また禍々しく、だが好奇心を刺激する
ものだった。
 子供たちのなかには彼を本気で怪人だと思い、怯えている顔
もある。
 ほかの教会のものに彼について尋ねれば、他人についての詮
索を咎められた。怪人について子細がつまびらかにされないこ
とで、子供たちの怯えは加速しているといっていい。
 しかし事情があってのあの風体なのだろう、彼は曲がりなり
にも修道士だ。おなじく修道院の敷地に暮らしているのだから、
危険はないとトゥッツィリアは考えていた。
 怪人はざくざくと音を立てながら、薬草園を大股に闊歩する。
 苗木を確認し、手袋のまま土をかき、怪人は薬草園の手入れ
をはじめた。
 フードから、するりと一房の髪が垂れる。ランタンの明かり

では、それが金か銀か見極めかねた。髪の色が気になってしま
い、首をのばしたトゥッツィリアは、身をひそめていた柱の陰
で目を凝らした。
 ふっと怪人の仮面がこちらを向いたようで、トゥッツィリア
はとっさに身を引いた。
 こちらに気がついた、というのは気のせいだったのか、怪人
はかたわらの雑草を引き抜きはじめた。
 物陰に身をひそめ、トゥッツィリアは息を吐いた。緊張に胸
がどきどきしている。
 ――相手の様子をうかがって、挨拶をしてみようか。
 一度隠れてしまうと、なかなか顔を出しにくい。
 日が落ちてからトゥッツィリアのような婦女子が部屋の外を
うろつくことに、教会の面々はいい顔をしなかった。それは自
分から顔を出せば、叱責される可能性もあるということだ。声
をかけるのにどうも尻ごみしてしまう。と同時に、祈りの時間
に部屋を出ている彼なら、口うるさくしない気がした。
 ――こんばんは、こんな時間にお手入れですか?
 たった一言だ。
 怪人怪人と子供たちは口さがなくいうが、彼は教会内で暮ら
している。着けた白い仮面のせいで腰が引けてしまうが、せい

ぜい奇人変人の類であって、他人に害を与えはしないだろう。

 怪人に声をかけるべく、トゥッツィリアは物陰を出ようとし
た。
 おなじくして、怪人もかがんでいた体勢から立ち上がった。
 その顔が一方向を向いている。
 なんだろう、とトゥッツィリアもそちらを見た。なにがある
とも判然としないうちに、ふっとあたりが暗くなる。振り返る
と、怪人が手にしていたランタンの火が消されていた。
 吹き消したらしく、怪人は一度外した仮面を、元のように被
り直しているところだった。
 顔を見る千載一遇の機会だったのかもしれない。そう内心歯
噛みしたトゥッツィリアの耳は、ひとが囁き合うようなちいさ
な声を拾った。そしてすぐその声に、こちらに向かって来る足
音が重なる。
 誰かがこちらに向かっているのだ。対して薬草園から足早に
怪人は去っていく。
「やだ、どうしよう」
 ここを出るには怪人の去った道を行くか、自分の背後にある
道を戻り石造りの建物に駆け戻るか、のふたつにひとつだ。ひ

との気配や足音は、回廊からやって来る。
「え、誰、やだ」
 迷う間にもそれは近づいていた。
 薬草園の塀のわき、山積みの資材の陰に、トゥッツィリアは
身をひそめることにした。
 トゥッツィリアは元々は教会の関係者ではない。
 遊学の一端として、父であるカスパール伯爵が地区の司教に
かけあい、トゥッツィリアは滞在することになったのだ――表
向きは。
 トゥッツィリアは母が持たせてくれた漆黒のストールを頭に
巻き、金の髪を隠して資材の陰で身体をちいさくした。身を隠
しながらも、隠れず素直に回廊で行き違えばよかったかもしれ
ない、とはやくも後悔している。
 こそこそと話す声が近づく。内容の聞き取れない、ぼそぼそ
と低くした声だ。誰のものかわからないが、聞いたことがある。
さらに近づく声がやけに親密そうに聞こえて、トゥッツィリア
は自分の口元を手で覆っていた。
 現れたのは、司祭の補佐官を勤める男と、若い修道女だった。
 案外祈りをまっとうせず、部屋を出るものは多いのかもしれ
ない。トゥッツィリアは補佐官が手にしたちいさな明かりから

顔を背けた。
 見つかりませんように、というその祈りは、見事天に通じた。
 彼らはすたすたとトゥッツィリアの横を通り過ぎ、薬草園へ
と足を運ぶ。
 後ろ姿を確認したトゥッツィリアは、彼らが手を取り合って
いるのを目にして声を漏らしそうになった。
 薬草園の一角、物置小屋に彼らは足早に入って行く。
 トゥッツィリアはくちびるを噛みしめていた。
 あたりをうかがう。
 ほかには誰もいない。
 スカートのドレープをたぐり寄せて持ち上げ、資材の影から
忍び足で出て行ったトゥッツィリアは、静かに物置小屋に向か
った。
 まさかね、と内心でくり返していた。
 ――まさか、逢い引きじゃないわよね。
 他人のことに首を突っこむなどはしたない。そうわかっては
いるが、トゥッツィリアの足は止まらなかった。
 生家の母の部屋、チェストの奥にその隠し棚があった。母は
そこに子供っぽい宝物を隠していた。昔ひとにもらったという、
花をかたどった刺繍物。ずいぶんと読みこまれた恋愛小説。持

ち主以外価値を見出せなさそうな、ちいさな色硝子。
 母の不在時に、トゥッツィリアはそこに並べられていた恋愛
小説を盗み読みしていた。きっと母は知っていただろう。トゥ
ッツィリアだけでなく、下の妹たちも読んでいた。
 恋愛小説には、身分違いの道ならぬ恋に懊悩しつつも、お互
いへの好意を抑え切れない若い男女が描かれていた。上下巻の
上巻しかなく、若い男女が結局どうなったのか、トゥッツィリ
アは知ることがなかった。忍びこんでいた手前、母に続きを尋
ねるわけにもいかなかったのだ。
 はじめて読んだときの頭がかっと熱くなるようなもどかしさ
と興奮を、トゥッツィリアはなつかしく思い出した。
 補佐官たちもそうなのだろうか。そうだったら――お話みた
いで、おもしろい。
 ――ふたりは物置小屋で資材の整理をしているかもしれない。
 ――もしかしたら愛を囁き合っているかもしれない。
 どちらかというと、トゥッツィリアは後者が希望だった。
 教会の門をくぐった彼らは修道士として暮らし、生涯貞節と
純潔を守り、清貧に身を置く誓いを立てているはずだ。それな
のに愛情を抱く相手ができたなら、それはそれは苦しいだろう
――やはりお話みたいで、おもしろい。

 他人事である。
 トゥッツィリアは無責任に考え、物置小屋の小窓にまわりこ
もうとした。
 ふとほそい声が聞こえて、トゥッツィリアは足を止める。
「ぁんっ……あぁ! あ!」
 ひとの、女の声だ。しかし、どこか動物めいており、仔猫を
連想した。
「あっ……あぁっ……あ、ん」
 頭が真っ白になっているにも関わらず、トゥッツィリアの足
はなおもゆっくり物置小屋に近づいていた。
 見当はついている。ついてしまっている。でも違っていたら。
違っていて、もし救助が必要な事態になっていたら。具合が悪
いとか、なにか手助けが必要な状況だったとしたら。
 物置小屋の小窓は半ば開けられている。木材も収納された場
所のため、多少の空気の流れが必要なのだ、と修道院に暮らす
子供のひとりに教わったことがあった。
 じりじりとトゥッツィリアは近づく。するとなかから漏れ聞
こえる声が、どんどん明瞭になっていった。衣擦れと、断続的
に続く烈しい音。
「ひ……あっあっぁあっ」

 小窓の隙間から、トゥッツィリアは小屋をのぞきこんだ。
「ふ……あぁっ、あ……!」
 救助などいらない。
 トゥッツィリアは、ふたりが身体を交えているのを目の当た
りにしていた。
 衝撃は大きい。
 愛を交わす行為がどんなものかは、噂話での伝聞ていどでし
か知らない。
 ふたりは夢中になって身体を揺すっている。ひどくはしたな
く、小屋に入ってすぐお互いの身体を求めたのだろう、裾をた
くし上げただけの状態だ。それでよかった、とトゥッツィリア
は硬直しながら思う。よけいな部分を見ないで済んだ。
「あ! あっ……あ、あっん」
 そっとトゥッツィリアは後退する。
 祈りの時間に補佐官たちがこんなことをしているなんて、さ
すがに考えもしなかった。
 誰の目もあるまい、とトゥッツィリアが散歩に出たように、
この時間に密会をするものがあってもおかしくないかもしれな
い。いや、とすぐ考えを訂正した。おかしいことだ。純潔は教
会にあるものの宿命のはずだ。これはどう見てもかけ離れてい

る。
 ――どうしよう。
 ここを離れなければ。
 接近するときはよかったが、離れるようといういま、トゥッ
ツィリアには迷いが生じている。物音を立てず、気づかれずに
去ることができるか不安でならない。
 首を巡らせたトゥッツィリアは、悲鳴を上げそうになった。
立ち去ったはずの怪人が、小道の先に立っていたのだ。
 彼は仮面の前にひと差し指を立てている。静かに、という身
振りだ。トゥッツィリアはうなずき、くちびるを噛んだ。
 動けなくなっていたトゥッツィリアに向かって、怪人は手招
いた。手袋をはめられた手が、空中で上下する。迷うトゥッツ
ィリアの前、怪人は物置小屋の方をあごでしゃくった。
 彼も小屋で行われていることを知っているのだ。
 トゥッツィリアは足音を殺し、そっと怪人に近づいた。
 そばに立った怪人は、思ったより背が高い。彼の白い仮面を
見上げる。
「あ、あの」
 ふたたび怪人は仮面の前でひと指し指を立てた。
 トゥッツィリアの反応を見届けもせずに、怪人は道を進んで

いく。
 ついていくかどうかトゥッツィリアは迷った。あの怪人に尋
ねようにも、迂闊に声を出したら小屋のなかのふたりに気づか
れてしまいそうで、なんだか声を出しづらい。
 暗がりにひとりになるのが心許なく感じられて、トゥッツィ
リアは彼を追った。
 数歩進むと道は完全な暗がりに転じた。蔦に覆われたアーチ
状の屋根の下に入ったのだ。
 怪人の進む先、そちらは墓地がある場所だった。トゥッツィ
リアが教会を訪れた日に敷地内を一巡りし、それ以降足を向け
たことがない区画である。
 ためらわず怪人が進むので、トゥッツィリアも進まざるを得
なくなった。
 自ら闇に踏みこんでいくなか、トゥッツィリアの頭がゆっく
り思考を取り戻しはじめた。
 前を行く怪人の背中も、ほとんどが闇に埋もれている。
 足場は悪く、意識して踵を上げて歩かなければ転んでしまい
そうだ。実際何度かトゥッツィリアは転びそうになっていた。
その都度怪人は足を止める。トゥッツィリアの様子をうかがっ
てはいるが、手を貸そうとはしない。それが続くとなんだかし

ゃくになってきた。小屋の密会現場から助けてもらったのだろ
うが、トゥッツィリアは怪人に対して意地を張るような気持ち
になっていた。
 アーチを抜けると、月明かりがあたりを照らす場所に出た。
ほっと息をつきそうになったのもつかの間、ずらりと墓標が並
んでいる。墓地と自覚した瞬間、全身に鳥肌が立った。
「……あ、あのっ」
 招かれるまま怪人について来てしまった。トゥッツィリアは
背筋をのばす。
 振り向いた怪人の仮面からは、なにもうかがえない。
 曲がりなりにも修道士、教会の関係者だ。
 トゥッツィリアがうろうろしていることを詰問されても、一
切文句はいえないのだ。
 いっそのこと、教会から追い出されるようなことをいってみ
ようか。ちらり、と頭をよぎったその考えは魅力的だった。こ
こを追い出されたら、どこに行くことになるのだろう。
「さきほどは、その……驚いてしまって」
 なにより気まずくなってしまうのは、トゥッツィリアが物置
小屋での密会をのぞき見ていたのを、彼に知られているからだ。
おそらく怪人は、補佐官たちの醜態を知っている。トゥッツィ

リアが好奇心でのぞいていた、と見られているかもしれなかっ
た。
「修道士さまに助けていただいたと思って……よろしいのです
よね?」
 白い仮面を前にすると話しづらい。相手の表情が読めないと、
石像に話しているような気分になった。
「ありがとうございました。私、そろそろ自分の部屋に」
「すぐそこだ」
 くぐもった声は、存外に若かった。
「へたにうろつくと、あいつらと鉢合わせになる。面倒がいや
なんだったら、時間を潰した方がいい」
 トゥッツィリアはあたりを見まわす。
 寒々しい墓標の間に立っている自分に、再度怖気立った。
 怪人は先導して歩き出す。逡巡したのは一瞬だ。トゥッツィ
リアは墓場にひとり取り残される自分を想像した。お断りであ
る。全身に鳥肌を立て、怪人の後を追った。
 さきほどの言葉通り、そこからほど近く、墓場の裏手に二階
建ての古い建物があった。大木とちいさな礼拝堂の影になって、
来た道からはぱっとわかる位置ではなかった。むしろ巨大な墓
石にも見え、トゥッツィリアは息を飲んだ。

 しかし墓石と見えただけあって、がっしりしたつくりの家で
ある。
 墓地のかたわらに建つ姿は、今度はトゥッツィリアに墓守を
連想させた。
「ここだ」
 怪人は木戸を開けると、さっさとなかに入っていく。
 開いた木戸からこぼれる明かりは魅力的で、トゥッツィリア
はそそくさと建物に入った。
 閉じる木戸の隙間、立ち並ぶ無数の墓標がそこにある。なぜ
かすべての墓標が自分の方をじっと見つめている気がして、ぞ
っとさせられた。
 こぼれた明かりを受けた墓標の群れから逃げるように、トゥ
ッツィリアはあわてて木戸を閉めた。思いがけず大きな音がし
て、トゥッツィリアは身をすくませる。
 室内に怪人の姿を探したが、姿は見当たらない。
「あの」
 入ってすぐちいさな厨房があり、さほど広くない室内の壁は
すべて棚で埋まっていた。
 木箱を使って整理を試みているようだが、無数の木箱は棚に
収まりきらず、床からトゥッツィリアの肩くらいの高さまでい

くつも積み上げられていた。
 倉庫然とした室内は生活臭が乏しく感じられ、トゥッツィリ
アとしては身の置き場がなく、居心地が悪かった。
 肩身のせまさを紛らわせようと、トゥッツィリアは積まれて
いる木箱に目を向ける。
 木箱には木炭でそれぞれ中身が記されていた。手近なものに
は植物の名前が刻まれていた。ずれていた木箱のふたを持ち上
げると、なかには白い布が敷いてあり、黒い粒が中央に安置さ
れている。
「……種?」
 なにか研究しているのか、学んでいるのだろう、と察せられ
た。
「おい、こっちだ。そのへんのものをいじらないでくれ」
 棚の向こう、二階に上がる階段があった。
 その二階から怪人は手招いていた。白い指が揺れる。手袋が
外されていて、彼の指が長く美しいのを見たトゥッツィリアは、
どきりとさせられていた。
 階段を上ってみると、二階には一階のような木箱はなかった。
だが随所に山のように書物が積み上げられ、トゥッツィリアに
は二階の床が歪んでいる気がした。

「適当に暇を潰しててくれ。教会の連中が寝静まったころに、
部屋まで送る」
 怪人は丸椅子を勧めてくれた。
「さっきみたいに、あまり不必要にうろつかない方がいい」
 怪人の声はやはり若い。明かりのついた部屋にいるためか、
怪人の風体を間近にしてもさほど恐ろしいと思わなかった。た
だの若い男だ。怪物じみたものを垣間見せるとか人間離れして
いるとか、そういった気配はない。
 丸椅子に腰を下ろしたトゥッツィリアは、部屋を見まわした。
 書物と書物の間に、テーブルやベッドなど生活必需品が埋も
れている。生活感がないことより、修道士らしからぬ部屋の有
り様に驚いていた。
「好奇心がありすぎないか?」
「あ……ごめんなさい」
 まったくもってその通りだ。トゥッツィリアは赤面してうつ
むいた。
「のぞき見なんてして、見つかったらどうするつもりだったん
だ?」
 トゥッツィリアを一瞥した怪人は、肩をすくめた。
「逢い引きの現場なんて、見て楽しいもんでもないだろう」

「そ、それは」
 トゥッツィリアは顔をさらに熱くした。耳の奥で、修道女の
甘い声がよみがえる。
「あ……あんなことになってるなんて、思わなくて……」
「……なるほど、それで?」
 怪人はフードを取った。
 薬草園の暗がりで、金か銀かと見定めかねた彼の髪は、トゥ
ッツィリアより明るい薄い金だった。首の後ろでひとつにくく
られているが、解けば肩より下まで長さがありそうだ。
 トゥッツィリアの言葉を聞いてか、怪人は首を小刻みに振っ
た。仮面を被ったままだが、呆れた様子が伝わってトゥッツィ
リアはまたうつむいてしまう。
「変な声がして、もしかしたら……具合が悪くなったのかも、
と……手がいるかもしれない、と思ってしまって」
「で、のぞいた、と」
「はしたないことだとは……自覚しています」
「はしたないのは、小屋にいた奴らだがな」
 自ら下腹部をさらけ出すようにスカートの裾をにぎり、のし
かかる補佐官の腰に足をまとわりつかせていた修道女の、熱に
浮かされたような顔を思い出してしまった。

 とんでもない場面を見た。
 トゥッツィリアはため息をつく。まさか教会内部であんなこ
とが行われているなんて、想像もしなかったのだ。逢い引きと
いっても、愛を囁き合うていどだと心底思っていた。
「何故、こんな時間に出歩いていた?」
 彼は自分のことを知っているのだろうか、と値踏みするよう
なことを考えた。トゥッツィリアは教会に身を寄せた、信仰の
道に入ってもいない貴族の娘だ。教会の面々ならみんな知って
いるだろうか。
 トゥッツィリアは部屋をもう一度見まわす。
「私は散歩ですが、あなたは?」
 怪人は黙っていた。
「いまはお祈りの時間ですよね? その……あまり戒律を守っ
てらっしゃらない……?」
 かたわらのちいさなテーブルに積んである書物の山の向こう
から、怪人は陶器の茶器ひとそろいと、水差しを取り出した。

「飲んで適当に時間を潰しているといい」
「あ、ありがとう……ございます」
 トゥッツィリアのした質問にこたえず、怪人は一階に降りて

いった。
 水差しをトゥッツィリアはのぞく。水にしては色がついてい
て、揺らすともったりと動く。においを嗅ぐと、うっすら甘い
香りがする。
 おそるおそる一口飲むと、それははちみつ水だった。強い甘
みを感じ、あごに痺れるような痛みが広がった。
「ああ」
 ため息が出る。
 生家を出て以来、果物や焼き菓子のような甘いものを口にす
る機会は格段に減っていた。
 甘い飲みものに、トゥッツィリアはほっとした。もう一口二
口、と続けて飲むと、夜の散策で予想外に強いられた緊張が解
れるようだ。
 ひとりではちみつ水を飲む怪人の姿を想像しながら、トゥッ
ツィリアは肩の力を抜いた。
 茶器をテーブルに置き、書物の山を見るともなしに見ている
と、生家の書斎を思い出した。
「……いつまで」
 いつまでここにいるのか、教会を仮の宿にしていればいいの
だろう。慣れ親しんだ生家を離れたまま、いつまで寄る辺ない

不安を抱えていればいいのか。
 トゥッツィリアは近くにあった書物を手に取った。
 なかに書かれているのは薬学だろうと推測できたが、こまか
い部分はトゥッツィリアの理解がとうてい及ばない。
 トゥッツィリアも生家であるカスパール伯爵家も、教会の信
徒だ。だが熱心な信徒ではない。それなのにトゥッツィリアを
遊学の一端として滞在させた父の考えは、衆目から隠すのが目
的だろうと思われた。
 国の中枢にもっとも近い血筋であるハミンズ公爵家の嫡子と、
トゥッツィリアは婚約していた。
 会ったことはない。
 この先も、会わない。
 ――今年の春のことだ。
 トゥッツィリアを呼びつけた父・カスパール伯爵は、じつは
一年ほど前に婚約者は亡くなっている、と切り出した。呆然と
するトゥッツィリアに、おまえは遊学に出るように、と申し渡
したのである。
 青天の霹靂だ。
 一度も顔を合わせたことのない見知らぬ婚約者の死も、遊学
も、突然の話だった。

 トゥッツィリアは驚いてしまって、言葉がひとつも出なかっ
た。
 婚約者のアムラス・ハミンズ公爵は、政敵に毒を盛られ、倒
れた。トゥッツィリアは知らずにいたが、公的な晩餐会で起こ
っの事件であり、隠蔽のために関係者は奔放したらしい。しか
し公的な席であったため、完璧に隠すことができなかった。だ
が彼が生命を落としたことは隠され、現在療養中ということに
なっている。
 すでに亡くなっている婚約者と遊学の後に婚礼を上げ、トゥ
ッツィリアは彼の妻となる。
 そして寡婦となるのだ。
 ハミンズ公爵家とカスパール伯爵家とのつながりを確固たる
ものにするため、トゥッツィリアの婚礼は必要だった。婚礼後
どのていどの時間を置いて、夫の訃報が出されるのかトゥッツ
ィリアは知らない。寡婦である、と周囲に広められたトゥッツ
ィリアは、その後どんな身の振り方をしてどのように暮らして
いくのか。どんな人生が待っているのかも。
 ――学ぶといい、トゥッツィリア。
 女に学はいらぬ、という持論の父の言葉に、トゥッツィリア
はそのとき我が耳を疑った。

 ――不要なものであっても、いずれおまえを慰めるかもしれ
ん。
 女にいらぬ学問をしろ、と父が持論を曲げていうのは、トゥ
ッツィリアには衝撃だった。もうおまえは女に、妻に、母にな
ることはない。言外にいい渡されたようなものである。
 カスパール伯爵家において、父は絶対だ。父がいうなら、ト
ゥッツィリアはしたがうしかない。遊学も、学問も、死者との
婚礼も。
 わずかな荷物と侍女とともに生家を出たが、教会に着くとト
ゥッツィリアを置いて侍女は生家に戻っていった。父の手配で
ある。それではトゥッツィリアは抗議できない。ずっと仕えて
くれていた侍女は、トゥッツィリアをひとり教会に残すことに
不満そうだった。
 ひとりになったトゥッツィリアは、教会が面倒をみている孤
児に混じり日々を過ごした。
 熱心な信徒たちよりも、トゥッツィリアの気を引こうとする
孤児たちといる方がずっと気が楽なのだ。
 孤児たちは国の内外から集められ、養い親や奉公先が見つか
ると教会を出て行く。
 どの顔も「女性」に甘えたがっていた。ひとときであっても

自分が相手をすることによって孤児たちが元気づけられるなら、
とトゥッツィリアは彼らの話をよく聞いた。
 昼は孤児たちと過ごし、夜は自室で読書をしたり編みものを
したりして、持てあましがちな時間を潰していた。
 孤児から怪人の話を聞いたのは、一週間ほど前だ。
 修道士みたいな格好の、仮面を被った怪人がいて、教会内を
徘徊している――きっとあれは墓場からよみがえった亡者で、
見つかったらひどいことをされるに違いない――口々に空想を
語る孤児たちの言を、トゥッツィリアがそのまま飲んだわけで
はなかった。彼を見かけたことはあったが、妙なひとがいる、
と思ったていどだったのだ。孤児たちにそんなふうにいわれて
いると知って驚かされた。
 図書室から借りていた書物を読み終え、時間を持て余したト
ゥッツィリアは散歩に出た。
 それがついさきごろのことである。
 教会の面々は夕餉の後、就寝の鐘が鳴るまでの間祈りを捧げ
る。祈りの時間、彼らは部屋から出ることは許されないはずだ
った。
 ならば自分が出歩いても見咎められまい、とトゥッツィリア
は考えたのだ。

 彼らは貴族の子女であるトゥッツィリアに、浮き足だった振
る舞いや言動を望んでいない。孤児の面倒を見るのはともかく、
一緒になって戯れはしゃぐことにはいい顔をしない。
 ましてや、日が落ちてからふらふら出歩くなど、以ての外だ。
 春に生家を発ち教会に滞在するようになって以来、トゥッツ
ィリア自身、夕餉以降に部屋を出たことはなかった。はじめて
足を向けた夜の教会、その敷地は夜陰に飲みこまれ、トゥッツ
ィリアはひどく緊張させられた。
 孤児の話す内容には、幽霊譚も多かった。教会地下に遺体を
安置する場所があり、裏手に大きな墓地があるのだからそれも
しかたない。ひとりで出歩くときに、思い出したい内容ではな
かった。
 怖い話を思い出して怖じ気づいても、部屋に戻る気はなかっ
た。
 誰にも見咎められないだろう場所を気の向くまま歩く、ただ
それだけでも気持ちが高揚した。緊張や勝手に抱いた恐怖が消
え、上機嫌になるのはすぐだった。
 そして散歩した結果、怪人の姿や物置小屋での情事を目撃す
ることになったのだった。
 怪人の部屋で椅子から腰を上げ、随所に積み上げられた書物

を適当にめくった。
 緻密な図案をみとめて、ページをめくる指が止まる。難しい
単語が並ぶのはどれもおなじだが、図案があると目を引かれた。
そこにはある植物の栽培方法について書かれている。はじめて
見る植物で、興味を持ったトゥッツィリアはほかの書物にも手
をのばす。
 父の教育方針で、女であるトゥッツィリアや妹たちは基本的
な読み書きしか学んでいない。ちいさな字で書きこまれた紙面
に書きこまれた文面の半分ていどしか、トゥッツィリアには読
み取れなかった。それでも手をのばしたのは、図案の美しさと、
植物という身近なものを扱った書物だったからだろう。
 書物の山のそのまた向こう、そこにも書物で山が築かれてい
る。そちらに腕をのばして一冊取ると、一緒にわたぼこりが舞
い上がった。
 たんたんと階段をのぼる音がして、トゥッツィリアはそちら
を見た。
 怪人は手に油紙を持っていた。
「本に興味があるのか?」
「あまり、読むのは得意じゃないんですが」
 微笑むのを心がけ、トゥッツィリアは勝手に書物を紐解いて

いたことを詫びた。
「かまわん。こんなところだ、本でも読まなければ時間は潰れ
ないだろう」
 食え、と差し出された油紙を開くと、焼き菓子が現れてトゥ
ッツィリアは微笑んだ。今度は心がけなくとも、自然と顔がほ
ころんでいた。
「あの、修道士さまは」
「アイオンでいい」
 彼の仮面はのっぺりと味気ないものだが、声を聞き名を知る
と、妙に親近感がわきはじめた。
「アイオンさまは、薬草園の管理をなさっておいでですの? 
さきほど手入れをしておいででしたが」
「管理とまではいかないが、あの一画を使わせてもらっている」
 あの薬草園は教会に専門の管理者がいると聞きかじっていた。
「こんな遅くに手入れなんて、大変ですのね」
「色々とやることはあるからな」
「植物の本がたくさんありますが……全部読めるのですか?」
 ぐるりと書物の山に視線を投げかける。違うことを尋ねたか
ったが、いざ目の前にすると口にしづらい。
 ――なぜ仮面を被っていらっしゃるの?

「まあ、そうだな。読める」
「こちらの本は、すべてお読みに?」
「ああ」
「勉強したら……私でも読めるようになるでしょうか」
「なるさ。なにかをはじめるのに、遅いなんてことはない」
「本を見させていただいても」
「かまわん」
 ふたたびアイオンは階下に降り、ややあっておもてに出て行
く音がした。
 ずっとトゥッツィリアは書物のページをめくっていた。トゥ
ッツィリアの語学力だと読めるものはすくないが、やさしい内
容のものもあり、言葉と言葉の間を想像してつないだ。
 書物に熱中したトゥッツィリアは、いつの間にか戻ったアイ
オンが真横に立っていることに、しばらく気がつかなかった。

 気がついたときには、驚いたあまりちいさく飛び上がったほ
どだった。
「ご、ごめんなさい……!」
「驚かせてすまない。気に入った本があるなら、持っていくと
いい。そのあたりのは、ずっと起きっぱなしになってるものば

かりだ」
 ほこりを被っている有り様から、アイオンの言葉が事実だと
わかる。
 図々しいかと気後れしたが、トゥッツィリアは三冊の薄い書
物を手にした。やさしい言葉で書かれた薬草栽培の内容に、気
が引かれたのだ。
「途中まで送っていく。来い」
 ランタンを持ったアイオンに先導され、来た道を戻った。
 広い墓地を横切り、アーチをくぐり、薬草園に出る。
 言葉を交わしたせいだろうか、往路のときよりもアイオンを
頼もしく感じていた。
 ちらっと物置小屋に気を向けると、
「もう誰もいない」
「あ……はい」
 のぞき見なんてはしたないことをした。トゥッツィリアはあ
わてて前を向いた。
「この先はひとりで行けるな?」
「はい、ありがとうございます」
「それと、俺のことは他言しないでほしい。おまえとおなじで、
俺には俺のわけがある。お互い、あまり他人にとやかくいわれ

たくないものがあるってことだ」
 静かな声だった。そしてアイオンは指先で仮面のはじを叩く。
カツカツと、かたい音がやけに大きく聞こえる。
 のっぺりと白い仮面に、トゥッツィリアはうなずいていた。
「ありがとうございました」
「おやすみ、お嬢さん」
 回廊に足を向け、トゥッツィリアは一度振り返った。
 アイオンはまだそこに立っていた。
 手を振ると、彼も軽く手を振り返してくれる。ほころびそう
になる口元を書物で隠し、トゥッツィリアは進んだ。
 怪人に助けられ、書物まで借り受けた。
 子供たちに聞かせれば、きっと驚く。だが話すことのできな
い秘密なのだ。秘密を持ったことで、トゥッツィリアは浮き足
立っていた。
 ――怪人と噂される人物と知り合ったというのは、ひどく楽
しい秘密ではないか。
 回廊を折れ短い階段をのぼり、あてがわれた自分の居室に戻
ったトゥッツィリアは、まだほこりで粉っぽい感触のする書物
を清潔な布で包んだ。
 窓を開け庭園の方角に首をのばしたが、そこからはなにも見

つけることはできなかった。



















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