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『水にひかれて』(日野裕太郎)

判型:文庫版 コピー 76ページ 頒布価格:300円

青年コイトの歯が突然抜け落ちはじめ、途方に暮れるなか祈祷師が「仕事を手伝え」と声をかけてきた。彼はなにか知っているようで……。

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ファンタジー | 土着 | 中編 | 架空

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 うまく隠れていたつもりでいたが、ひとの口から出てきて驚
かされる。
「墓場に死霊が出るなんて話、冗談でも聞きたくなかったわ」
 ため息交じりのその声の続きは、コイトが井戸から引き上げ
た桶の水音でかき消えた。ざばりと汲んだ水の飛沫はとても冷
たかった。
 くわしく聞きたくてたまらなかったのだが、コイトはそそく
さとその場をあとにする。仕事の手を休めて雑談に興じるおか
みたちに混じるほど親交はなく、そこにわざわざ入っていくの
は億劫だった。
 それでもいくつか耳に入ったことがある。
 ――たまたま夜に墓場の見える道を通ったものがいたそうだ。
 そしてなにかが墓場にいるのを目撃したのだという。
 すでにそれはちまたで死霊と呼ばれているようで、おかみた
ちは本格的な憂い顔をしていた。
 彼女らの口にのぼるようになっているのだ、村の祈祷師にと
ころにはすでに話は行っているだろう。
 深いため息が出る。

 それは墓場でひとり酒盛りをしていた自分だなどと、誰も思
いもしないだろう。
 汲んできた水を台所に置き、椅子に腰を下ろすとコイトは頭
を抱えた。
 平原の只中、ぽとり、と落ちた鳥のふんのような村で、コイ
トは生まれ暮らしている。
 いびつに広がっているちいさな村だ。飛び抜けて大きな建物
は、村長の家くらいのもの。点々と家が建ち、ほかは畑ばかり
の静かな場所だった。
 そして村の人間は、全員が顔見知りといっていい。どこに行
っても顔を合わせるのは知己であり、誰の姿もないと思ったと
ころで、誰かの目はある気の休まらない側面のある土地だ。
 墓場での酒盛りは、最近のコイトの楽しみであり息抜きだっ
た。さすがに夜の墓地ならそうそう人目につかないだろう、と
高をくくっていたのだが、あっさり発覚していたようだ。
 明かりを持ちこんだことが失敗だったかもしれない。墓場に
赴く際にいつも携えているランプは、いまも台所の片隅にある。
 ランプを前に、コイトは肩を落とした。
 しばらく墓場に足を向けるのは避けた方がいい。通りかかっ
たものがもうちょっと近くを歩いていたら、そこにいるのがコ

イトだとわかっていただろう。
 そんなことになっていたら、コイトが正気を失ったという噂
が瞬く間に広まっていたはずだ。
 死霊云々、といういまある噂が悪い方向に転がったりしたら、
村の祈祷師であるウマサに迷惑をかけることになりかねない。
むしろ先に、死霊でもなんでもなくたまたま自分がいただけだ、
と報告しに行った方がいいだろうか。
 ぐだぐだと考えるうちに腹が鳴り、口をもぐもぐと動かした
ところ、コイトの口のなかで歯が揺れた。
 舌先でそっとなぞってみたが、歯は揺れなかった。
 今度は舌先に力をこめてみる。
 歯がかしいだ気がしてひやりとした。
 ほおの上から手を当ててみる。
 歯は抜けたらおしまいだ。
 とっくに乳歯は抜け、齢二十歳のコイトの歯はすべておとな
のものである。
 手のひらで包むようにしたそこに痛みはなかった。しかし歯
が揺れたとなると、原因を求めてしまう。
 うっかりどこかでぶつけたか、かたいものでも噛んだか、寝
ている間にぶつけでもしたか。思い浮かんだものは、いずれも

痛みをともなってしかるべきものだ。
 歯の揺れを再確認するのもなんだか怖くて、コイトは昼食は
やわらかい粥をつくった。
 口に運びながらも、コイトは緊張していた。
 甘いかおりの粥をすすり、歯に痛みが出たら、と気を揉んだ。
 しかし歯に痛みは起こらず、思い起こしてみたところで、と
くに顔をぶつけたりした記憶はなかった。
 食器を洗うころには、歯が揺れたこと自体を忘れてしまって
いた。
 再度コイトが歯のことに意識を向けたのは、二日後だ。
 揺れていたくだんの歯が、唐突に抜けた。
 








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