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『陽だまりうたた寝若桜』(日野裕太郎・みさわりょう)

【ファンタジー長編】
家を飛び出し廃駅に辿りついた女子高生・美耶子。
行き場のない美耶子は駅で地元の老婆、老人たちに匿ってもらうこととなった。
食べ物や寝場所、風呂など身の回りの世話をしてもらい、老人たちの優しさに守られて美耶子の固く閉ざされていたこころが柔らかくほどけていく。

しかし、廃駅にいるセーラー服の幽霊という噂となり、肝試しにやってきた子供たちと接触。
家に戻ることになった美耶子を、老人たちはやはり優しく送り出してくれるのだった。

家族の問題で家出をした美耶子が老人たちに守られ癒やされていく、すこし不思議で優しい物語。

文庫 約215ページ(1ページ 39字詰め 18行)

エキセントリックで嘘をつかない、天真爛漫な西村氏を愛した子供たちは、みな残念がっていた。
そして子供たちは、西村氏が最後に残した、駅に立つセーラー服の謎の少女の話を大切な怪異として語り合った。

──駅にいたんだよ女の子だよ、知らない子、見たことない子、きれいな子。目、いいよ。おいちゃん、目、とてもいいんだよ。あの子、近所の子じゃないよ。きっと、おばけじゃないかな、おばけだったら怖いでしょ、だから挨拶しなかったんだ。おばけにこんにちは、っていうの、怖いでしょう。だって女の子ね、セーラー服だったんだよ、知らない子でしょう──

自分が「謎の少女」として児童たちを魅了しているなど、当の美耶子は知る由もなかった。

【Amazonでレビューいただきました】

【サンプル】

 1 セーラー服の家出少女
 
 美耶子みやこは目立っていた。
 あたりに遮蔽物がなく、視界はひらけている。
 白い雲、青い空、あおさをいや増して来た緑――取り巻く環境
は瑞々しく彩度が高い。
 だが美耶子が立つのは、灰色のコンクリートでできた、無骨
な単線の駅のホームである。否応なしに目立ってしまう。
 はるか先まで見通せるあたり一帯には、建造物はほかに見当
たらない。
 繁殖を阻むもののない自然は威圧感を持った。揺れる梢から
目を逸らせば、現実離れして思えるほど空が低い。
 駅は改札はあるが、朝はやく掃除をしに駅員がやって来る以
外は、常時無人である。のんびり姿を現す駅員はいつも野良着
でいるので、初見では彼が――その老人が駅員とはわからない。
気が向くと無表情で車内アナウンスをそらんじて見せ、美耶子
一瞥いちべつしてからにやりと笑う。
 その駅の名は、降り立つまで美耶子は一度も聞いたことのな
いものだった。
 駅舎が無人になる光景というものも、実際にはじめて見た。

 日に三度訪れるのは、一両だけの電車だ。
 くすんだ色味で半ば剥げた塗装の、一両編成の電車である。
きしむ音も大きく、左右に身体を揺らしながらやって来る。そ
しておっくうそうに去って行く。
 屋根もないむき出しのホームに立ち、すっかりうららかにな
った空気のやわらかさに、美耶子は目をほそめた。
 ホームの足元、コンクリートに入った亀裂から雑草が生えて
いる。可憐なちいさな花の名を知らない。うっかり踏まないよ
う、美耶子はそこから半歩離れた。
 美耶子が駅に住みついたのは、昨年の秋の終わりのことだ。
 着の身着のまま家を飛び出したのは、早朝である――美耶子
は家出少女だ。
 さいの目はうまく転がった。
 それがよいもの悪いもの、どちらの導きかはわからないが、
美耶子は背中を強く押されていた。
 着ていたセーラー服のポケットに、小銭が入っていた。かな
り前に親からおおせつかった買いものの、返しそびれた釣り銭
である。放置されていた十円玉の表面は錆び、湿って感じられ
た。
 初乗り運賃だけを払って電車に乗り、美耶子は旅に出た。

 荷物も上着もない。
 セーラー服でふらふら出歩く子供など、目を引いてあっとい
う間に補導される、と思っていた。その危惧きぐに反して、誰も声
をかけて来なかった。
 自分の立ち振る舞いが、諦念ていねんのあまり堂々としていたためか、
と美耶子は振り返る。
 電車待ちのホームではなにをするでもなく、疲れからうたた
寝をしたり、枝毛を探すふうに毛先をながめたり、また駅のキ
オスクでは雑誌の立ち読みをしたりしていたせいかもしれない
――確証はなかったが。
 乗り換えも適当に、知らない行き先の電車ばかり選んだ。
 やっとおもてに目をやって息をつこうとしたときには、すで
に車窓は黒くなっていた。墨を刷いたような漆黒。
 ずっと抱えていた諦念は、その実緊張をはらんでいた。ほっ
とついた息に、美耶子はそう悟った。
 暗い車窓、映る顔は無表情で疲れがにじむ。
 外の世界では、線路沿いの街灯がわずかな光源となっていた。
吹き溜まるみたいにして、幾重にも闇と影が重なっている。濃
い闇と薄い影が互いを侵食し、交わろうと急いてうごめいているふ
うに見えた。

「こわい」
 乗客のほとんどいない車両で、ぽつりと美耶子はつぶやく。
意識せずに言葉が落ちていた。
 降り立った終着駅、なのに線路はまだ先へとのびている。
 やはりそこもちいさな駅で、降りたのは美耶子ともうひとり
――恰幅かっぷくのよい、酔漢だけだった。
 酔漢が駅員となにやら親しげに話しこんでいる間に、美耶子
は線路に下りた。
 あまりにひとがいなくて、彼女をとがめる声はなかった。
 あまりにひとがいなくて、誰も美耶子が線路に立っているな
ど気づかなかった。
 あまりにひとがいなくて、美耶子は思うままに動くことがで
きた。
 晩秋の夜は寒く、暖を取ろうと歩いた。
 晩秋の夜は暗く、胸に根づいた恐れを振り切ろうと美耶子は
歩いた。
 線路には点々と街灯があった。一本の光の道をかたちづくり、
それ以外の光源は夜空からしか得られない。せかせか歩く自分
の足音を耳に、美耶子は振り返らずに先を急ぐ。振り返っては
ならない気がした。自分が逃げ出した場所をかえりみるのは、

大それた行為だ。
 灯る頼りない光をたどっているうちに、美耶子は朝を迎えて
いた。
 じんわりとあたりが白む。
 街灯の明かりが用をなさなくなって、美耶子はやっと来た道
を振り返った。おそるおそる確認した。来た道は白いもやに閉
ざされている。首をのばす。もう自分が後にした、ちいさな駅
の姿を思い出せなかった。膝から下の感覚が薄れ、だが下半身
が痛んでいる。
 美耶子はさらに先へ進んだ。
 線路脇の砂利道を進む。
 やがて到着したのは、ちいさな見知らぬ駅。
 待合室があった。サッシのガラス越しにのぞいたそこは、物
置といっても差し支えなさそうな有様だ。公共施設のはずが、
なんだか雑然としている。持ち寄られたものなのか、統一感を
欠いた、バラバラの柄の座布団やら、古びた洗面器などが置い
てある。
 サッシに手をかけると、鍵はかかっていなかった。
 足を踏み入れてみると、なかはとても暖かい。
 美耶子は息をついた。

 しょせんどこに行こうが、結局補導されて家に送り返される
のが落ちだ。諦念を引き連れ歩き疲れていた美耶子は、ベンチ
に腰を下ろした。
 足をのばすと、疲れがどっと背中からおおいかぶさった。冷
え切ったふくらはぎをさする指も冷たい。美耶子はまた息をつ
き――その後、すこんと眠ってしまっていた。
 
 
 夢を見た。
 無人の街を美耶子は行く。
 やがて線路に行き当たり、沿って歩き出す。行き先はない。
線路の先は闇に飲まれていた。だが美耶子は進む。
 止まるのが怖い。止まった瞬間に、怖くてつらいものが追い
すがって来る、と必死になっていた――だが走ってはならない。
周囲は静かだったが、美耶子は慎重に気を配っていた。
 うかつに走って不用意な音を立て、背後に迫るものに気づか
れてはならない。美耶子が追跡者の存在を予見していると気づ
かれてはならない。
 うすいローファーの靴底、線路に敷き詰めた砂利が痛い。踏
みしめる音が聞こえるたびに、すくみ上がるような思いをした

振り返ることも後戻りすることもできない。美耶子は止まらず
歩いた。
 闇が目の前に迫っている。
 あそこなら、と美耶子ははりつめたももを叱咤する。あそこ
なら、見つからずにいられるはずだ。
 じわりと水に血液がにじみながら広がるように、闇は線路の
先、あたり一帯を浸食していた。
 怖い場所じゃありませんように――美耶子は祈りつつも、迷
いなく闇に向かって足を進めていた。
 
 
 目を覚ますと、陽が高くなっていた。一瞬、いまいる場所が
わからない。
 窓を背にしたベンチのある、簡素な待合室――眠りこけてい
た美耶子のとなりには、いつからそこにいたのか、野良着の老
婆がすわっていた。
 物音に気づかなかった。一瞬で緊張し、かたまってしまった
美耶子と目が合うと、老婆は親しげな顔をして何度かうなずい
た。
「お疲れさんね」

 ねぎらう声音だが、誰何するものだと美耶子は察した。自分
がよそものだとわかっての言葉だ。
 田舎に対する偏見かもしれないが、この近隣の住人はみな顔
見知りだろう。
 居心地の悪さを覚え返事を考えるが、なにも思いつかない。
取りつくろうように、美耶子はしょぼつく目をこすった。
「もう起きていいの、寝てれば」
 老婆がのんびりいう。無防備な寝顔をさらしていたのだ、と
気恥ずかしさにうつむいた。
「あの……だいじょうぶです」
 平静な声を出そうと努めたが、成功した気がしなかった。
「薄着で、あんた寒いだろうに」
 むき出しの美耶子の膝に、老婆はみかんを乗せた。
「甘いよ」
 驚いて顔を見ると、老婆は顔をくしゃくしゃにして笑った。
 手に取ったみかんは重く、食べると果汁が甘くてあごが痛く
なった。空腹の胃にしみるほどおいしい。
「あんた、なにしてんの」
「……家出です」
「こっちも食べるか」

 今度はティッシュに包んだ落雁らくがんを老婆はよこした。みかんで
は足りなかった美耶子には、ひたすら嬉しかった。しかし喜ん
でいる、と悟られたくなかった。
 美耶子は、口を引き結んで老婆の横顔をうかがった。
 電車待ちをしているのだろう、横にジャンパーを置き大きな
布のかばんを膝に乗せている。買出しに行くのか。
 時間が気になった。視線を左右にすべらせてみても、待合室
に時計はない。
「あんた、若くたって寒いだろ」
 老婆は部屋の隅にあったストーブを指し示した。
「勝手につけちゃえばいいよ」
 簡単にいって、老婆はにやりと笑う。笑ってみると、歯がな
いのがわかる。あれば印象も違うだろうに、ふにゃふにゃのく
ちびるも相まって、どことなく邪悪な笑みだ。
 美耶子はみかんの皮に目を落とす。いうべき言葉がひとつし
か思い浮かばないので、美耶子は口にした――
「ありがとうございました」
 老婆は破顔した。
「で」
 かばんからたばこを出し、老婆は火をつけた。見慣れない銘

柄のたばこで、なんだか甘いにおいの煙が待合室に吐き出され
る。
「で、こんなとこでどうすんの」
 くゆる紫煙と共に吐き出された老婆の言葉に、美耶子はすこ
逡巡しゅんじゅんした。
 この老婆に嘘が通用する気がしなかった。
 だから正直に、家出の理由を告げた。
 
「やだよやだね陰惨だ厄介だ」
 つぶやき、老婆は何度かうなずいた。
「でもつくり過ぎ」
 そう言葉を続けて、老婆は腰を上げた。
 美耶子は苦笑した。つくり過ぎ、と一刀両断されたのが、何
故か嬉しかった。だが告白は事実だったため、苦い笑みにしか
ならない。
「あとでなんか持って来るから、寝てな。若くても、くたびれ
るでしょうよ」
 老婆の言葉はどこか浮薄ふはくな音だったが、不快ではなかった。
 出て行く姿を見送って、なにも期待せずにまたうとうとした。
家出の身の上でありながら、公共施設に長居するのは得策では

なかった。だが下半身の疲労がひどく、立ち上がる気になれな
い。
 本当に老婆は毛布を持って再訪した。ついでに湯の入ったポ
ットや湯飲みを持って来てくれる。厚みのある派手な模様の座
布団も持って来て、
「あんた専用ね」
 そういって老婆は笑った。
 誰々専用の座布団、と近隣のものが持ち寄って、こんな有様
になったのだ――美耶子はベンチに転がる、様々な模様の座布
団をながめた。
 新たに老婆によって持ちこまれたもので、待合室はあっとい
う間に秘密基地みたいになって――美耶子は目をみはっていた。
 どうせ短期間だ、と思う。近所の暇なお婆さんが、家出した
子供をかまっているだけだ。駅員に見つかって、半日も持続で
きない隠れ家ごっこだ。懸念があるとするなら、老婆が駅員に
怒られないかどうかだった。
 毛布など日用品を前に手をつけるか迷っていると、老婆はプ
ラスチックの保存容器におにぎりや煮物を入れて現れた。
 背後に野良着の老人を連れていた。
 老婆は美耶子を指差し、

「ここ、住んでいいでしょ」
「なんだよこんな狭いとこなのかい、気がきかんなぁ、テレビ
もゲームも漫画もないんじゃ若い子は辛抱できんだろ」
 老人はよどみなく一息にいった。
 それからも老婆は、何人かの年寄りを代わる代わる連れて来
た。男性の比率が高い。老婆は遠慮なく美耶子を指差し、
「この子、家出したのよ。ここに住むからね」
「そうかい。若いうちは色々あるからな」
 赤いジャンパーを着た老爺は、こともなげにいう。
「なにいってんの、じじばばになったって、色々あるでしょう
よ」
「極楽いっても、なんかあるかもな」
 老爺はさも上質のジョークをいったように、得意げな顔をし
た。どうだ、といわんばかりの笑顔で見つめてくるので、美耶
子は愛想笑いをする。
「馬鹿か。どのツラ下げて極楽行く気なの」
「ああ? もうろくしたのか、この男前が目に入らないってか」
「あんたの顔見てたら、目がつぶれるわ」
「なんだ、あとで拝みたくなっても、拝ませてやらんぞ」
「誰が拝みたいもんかね」

 しっし、と手で乱暴に出るよう示されて、老爺は笑顔のまま
出て行った。
 入れ替わりに、大柄な老婆が入って来る。先ほどの老爺同様
に美耶子を紹介し、しばらく婆同士で世間話に花を咲かせてい
た。
 そのころには美耶子は、老婆は彼らにここはこの子の場所だ
から入るな、といってくれているのだと感じていた。
 都合のいい解釈だ、と美耶子は自嘲する。しかし老婆たちを
押しのけて待合室を出て行けない。美耶子は本当に疲れていた。
 日が暮れ朝になり、老婆は朝食持参で現れた。鶴子、とその
ときに老婆は名乗った。
 警察に通報される様子もなく、電車の本数はすくなく、乗降
するものもなく、駅はまるでそこに存在しないかのようだった。
 一週間もすると、待合室はさらに日用品にあふれた。誰も美
耶子を追い出そうとしない。
 戸惑う美耶子から、ようやくといった体で出る礼の言葉に、
みな老いたしわだらけの顔を笑みのかたちにした。
「だってあんた、鶴子の友達なんだろ」
 彼らはいう。ためらいながら美耶子がうなずくと、彼らは嬉
しそうに笑った。

 鶴子の友達だろ――その言葉を思い起こすたびに、美耶子は
喜びに似たほこらしい気持ちを覚える反面、後ろめたさも感じ
ていた。鶴子はあけすけな性格で、美耶子は気やすく思ってい
る。はたから見て、鶴子と親しいと見られるのはうれしい。だ
が彼女の行為につけこんでいる気がしてならない。
 美耶子はすんなりとそこに住みはじめていた。
 なり行きだったが、逃げ出した家以外に居場所があるのは僥
倖だ。
 出て来た家が、美耶子の件をどう処理しているかわからなか
った。新聞もテレビも携帯電話もない。老人たちも、ニュース
で美耶子に関する報道は見た覚えがない、という。
 不安はぬぐえない。だが何故かここでは気を抜いていい、と
いう気がしていた。
 老人たちは散歩のついで、といいながら、入れ替わり立ち替
わりやって来た。しかし入り浸らず、美耶子は気詰まりを覚え
ない。
 老人たちのゆったりした、くり返される思い出話を聞きなが
ら日々を過ごすうちに、美耶子は冬を迎えていた。
 鈍色にびいろの空をながめ、持ちこまれた石油ストーブで餅を焼いた。
あんこ欲しいか、と鶴子に訊かれたが、餅ばかり食べて体重が

気になる美耶子は、首を横に振り続けた。本当はあんこどころ
か、こってりした生クリームやマロングラッセが食べたかった。
無性に食べたくなることがあって、そんなとき美耶子はもらっ
た塩飴を口に放りこむ。悪い味ではないが満足とはほど遠く、
ため息が出た。
 駅から二十分ほど歩くと、温泉が湧き出したちいさな公共の
浴場がある。簡易とはいえまがりなりにも入浴施設で、無料開
放されているが露天風呂だった。
 設備投資する気がなかったのか、照明等の備品がない。空き
地に唐突に囲いがあって、そこに大きな湯船がある。そのてい
どのものであった。
 一帯にひとけがなく、囲いに高さがあるので、なにも気にせ
ず湯に飛びこむ。
 ぬるめの湯につかって、美耶子はぼんやりする――考えこま
ないよう、あえてぼんやりするようにする。
 そうしていると、首から上は冷えているのに、身体はどんど
ん温まっていく。以前水泳部に所属していたことがあるせいか、
手足が湯のなかで勝手に動いていた。
 そのうち意図しなくても、自然となにも考えないようになり、
弛緩しかんした頭は幸福感に満たされた。

 ひたいから汗が流れるままにする間に眠気が来て、湯のなか
で眠りそうになることも多かった。
 家出の分際で緊張感が薄い。
 環境に慣れてしまったことと、ほかの利用者とかち合わない
ように、あえて明け方を選んで入浴するためだろう。現にうた
た寝をして、湯に顔をつっこんだこともあった。溺れたら救助
は望めないから、気をつけなくてはならない。うとうとしなが
ら、毎回そう思っている。
 身体の力を抜いて、湯に身体を浮かせる。
 真上を向いて、静かに雲が流れていくのを見つめる。取り立
ててめずらしいながめではないのに、ため息が出るほど美しい。
 周囲をぐるりと囲む木の柵、入浴客の目隠しには十分で、そ
のかたちに空がぽかりと切り抜かれている。
 この土地に来て、生まれてはじめて流れ星を肉眼で見ていた。
 夜の色から朝の色に変わる空に、美耶子の脳裏を満たしてい
た幸福感が強まる。
 こんなにもきれいなものを独り占めにしている、と湯で足を
ばたつかせて喜んだ――なによりここには、誰ひとりとしてひ
どいことをするものはいないのだ。
 のんびり湯につかったまま、まるで王さまみたいだ、とちい

さな満足感に鼻腔びこうをふくらませる。子供じみた空想だが、美耶
子には楽しかった。
 居場所があって、訪れる老人たちが食べものをくれる。誰も
追い出そうとしない。美耶子に話しかけ、気遣ってくれる。美
耶子が訊かれたくない質問は、誰ひとりとして口にしなかった。
おとなならまず尋ねることも、彼らは一切尋ねない。優しさか
らかなのか、どこか抜けているのか。
 同年代の子たちは、進学をひかえ憂いた時間を過ごす時期だ。
 美耶子の思考はふと現実に引き戻される。
 未来のこと――過去に起きたこと、したこと、されたこと。
 うっかり考え出してしまうと、それまでの幸福感が台なしに
なった。浮いていた姿勢を立て直し、肩まで湯につかる。
 眉間にしわを入れて、美耶子はちらりと現実を一瞥した。
 義務教育を修了しただけでは、この先困難を強いられる場面
が出る――ぼんやりした未来の展望であっても、そう感じた。

 自然と首を振っていた。
 気を取り直し、湯で顔を洗う。
 親切にしてくれる老人たちは、誰ひとりとして家に来い、と
いわない。その理由に考えが向かった――即座に考えるのを止

めようとし、美耶子は湯から上がった。
 これ以上なにをしてもらおうというのか、現金で浅ましい自
分が嫌になる。せっかくののんびりした気持ちに水が差された
――差したのは、ほかならぬ自分だったが。
 そそくさと美耶子は身支度をした。
 片道二十分の距離があると、さすがに待合室に戻るまでに身
体は冷える。
 視界には民家とおぼしきものも、田畑も商店も、なにもなかっ
た。ようするにひとの暮らす気配がないのである。夜半だから
ではなく、夕間暮れにあたりを散策しても印象はおなじだった。
 街灯もないため、夜空の星は盛大に瞬いている。光をさえぎ
るもののないまっすぐな道では、星明かりが足元を十分に照ら
してくれた。ふと電線の数もすくない、と思い当たった。空を
区切る送電線も電信柱も数がない。生活に支障があるのでは、
と美耶子でさえ心配になった。
 みんなけっこう遠くから待合室まで来てくれてるのかも、と
もらったゴム長の歩調をはやめる。
 差し入れられた、羽毛の抜けたダウンジャケットの前をかき
合わせて歩く。身体が冷え切る前に戻ろう、とよそ見をせずに
待合室を目指した。

 美耶子は日々のなか、できるだけ過去を思い出さないように
して過ごした。
 やがて寒さは一段と厳しくなっていった。身を縮めて過ごす
間に、二度深い雪が降った。散歩に出れば土の下に霜を踏む感
覚があり、昼日中でも美耶子の足を楽しませた。
 かじかんだ指をゆっくり開くように日差しがやわらかくなり
――春が訪れる。
 襟がゆるめば、気持ちもゆるんだ。そのころには、すっかり
そこでの生活になじんでしまった美耶子がいた。
 無人のホームに美耶子は立ち、あたりを見まわした。
 日に日に緑は勢いを増す。手で目庇まびさしをつくらなければなら
ないほど、つらい陽差しの日が多くなっている。
 ある日鶴子が待合室を訪れ、線路の先をじっと見ていた美耶
子に短く尋ねた
「なにあんた帰んの?」
「……わかんない」
 久しぶりに頭に浮かんだ家族の顔は、美耶子に吐き気を感じ
させた。
 どうしてか美耶子はその事実に安堵した。
 

 
 遠目にも、ホームに立つ美耶子は目立っていた。
 美耶子を目撃したのは、西村のおっちゃん、と地元の子供ら
に親しまれている男性だった。
 常日頃から浮世離れしたことを口走っていたため、良識ある
おとなたちは、西村氏の言動をいつも聞き流していた。
 彼は土地の生まれのものだったが、身よりもなく、良識ある
おとなたちは手をこまねいていた。
 家はあったが、雨でも降らない限り彼は屋外で暮らしていた。
池や路肩の花に一心不乱に話しかけたり、子供たちに荒唐無稽
な話をする人物だった。
 凶暴なひとでないから、という理由で西村氏は放置されてい
た――顔を知る幾人かが、食事の世話を続けていたのだった。

 しかし彼の年齢が中年より老年に近づいたところで、行政が
彼を安全な施設に保護してしまった。
 西村氏は施設に行きたくない、このまま家にいる――そうい
って固辞した。だがひとりで身のまわりの世話ができている、
とはいいがたかった。施設で花壇の世話を任せようと提案し、
なんとか彼に了承させた、ともっぱらの噂である。

 エキセントリックで嘘をつかない、天真爛漫な西村氏を愛し
た子供たちは、みな残念がっていた。
 そして子供たちは、西村氏が最後に残した、駅に立つセーラ
ー服の謎の少女の話を大切な怪異として語り合った。
 
 
 ――駅にいたんだよ女の子だよ、知らない子、見たことない
子、きれいな子。目、いいよ。おいちゃん、目、とてもいいん
だよ。あの子、近所の子じゃないよ。きっと、おばけじゃない
かな、おばけだったら怖いでしょ、だから挨拶しなかったんだ。
おばけにこんにちは、っていうの、怖いでしょう。だって女の
子ね、セーラー服だったんだよ、知らない子でしょう――
 
 
 自分が「謎の少女」として児童たちを魅了しているなど、当
の美耶子は知るよしもなかった。
 
 2 肝試しの計画
 
 日向にいると汗ばむようになって、自然と日中は日陰で過ご

すようになっていた。
 待合室はむき出しのコンクリートの駅にある。陽をさえぎる
ものがなにもない場所に、ぽつんとある状態だ。そのため待合
室にいると、快晴時にはじりじりあぶられるような暑さに見舞
われる。
 春先だというのに、あごから汗がしたたり落ちる経験をする
とは思ってもみなかった。
 しかし駅舎周囲に木陰は事欠かないため、待合室を出た美耶
子は、日陰で転がって樹冠をながめる。
 横たわってみると、雑草のやわらかさとクッションにうっと
りした。
 気持ちよく手足をのばしたのは束の間で、夏には蚊が出るな、
と思う。次いで夏までここにいるのか自問して、美耶子は体温
がすっと下がる。
 家出している身の上だったが、一度安息の場所を得てしまう
と動き難いものだ。
 同級生の顔を思い浮かべるが、引越しに伴う転校のせいで、
どの顔も不明瞭にしか思い出せない。
 以前住んでいた場所での友人の顔は、すんなりまぶたに浮か
び上がる――それらの親しかった顔は、会いに行くには距離が

あった。
「みんな元気かな――」
 気やすい声で、ひとりごとをいってみる。
 両親の離婚で住み慣れた土地を離れ、まだそんなに時間は経
っていない。なのに遠い過去のできごとみたいに感じられた。

 父親に連れられて移った土地に、美耶子はなんら愛着がわか
なかった。
 離婚後すぐに再婚した父の家庭は、居心地が悪い。
 無性に実母に会いたかった。きつい母の性格が、恋しくてな
らない。だが離婚したと同時に仕事に打ちこみはじめた母は、
いま日本と諸外国を往復して多忙を極めているはずだ。
 インターネットでのメールのやり取りが途絶えた娘を、母は
すこしはいぶかしく思っているだろうか?
 美耶子は自分が働ける年齢でないのが悔しかった。
 身を起こす。
 来年の春には働ける年齢になるが――いまは家出した身分だ。
年齢や身元を証明するものがない。行き当たりばったりに家を
飛び出した行動を、いまさらとやかく考える気はなかった。だ
が一度はあの家に戻らなければならないのだと、苦々しい気持

ちになる。
 
(※ 本編に続く)

















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