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『水影に赤をきく』(日野裕太郎・ハルノブ)

【ヒューマンドラマ連作】
短中編2作収録。
自分と家族の居場所を求める物語。少年が家長として成長していく過程を描くビルドゥングスロマン。

『水影に赤をきく』
肥沃な大地を奪いあう。守るべき家族の前では、他人の生命などあまりに軽い。
まだ青年のト・ワンは残された兄弟たちのために家長として懸命にふるまう。
殺戮の場でト・ワンは選択する。

『見えない手と手をつないできみと』
姉、妹と3人を残して村が水に飲まれた、多くの村人が水没した。
帰るべき場所を夢みて切望しながらマー・マーは辿りついた村で姉と妹と新しい生活を始める。

幼い妹と別れ、姉を婚礼に送り出し、水の底に沈んだ父の面影と母の思い出を胸に、マー・マーは自分の家族を築いていく。

たとえば。宮部みゆきの『孤宿の人』で泣けたら、こちらもいかがでしょう。

文庫 約88ページ(1ページ 39字詰め 18行)

祝いごととするには、あまりに質素な式だった。
だが新郎新婦を祝福する友人たちの顔に嘘はなく、誰もが寿ぎを惜しみなく与えている。
マー・マーも祝福した。
姉は幸せにならなければならない。
妹も幸せにならなければならない。
自分の目の届かない場所に行く姉妹が、マー・マーは気がかりだった。だが自分がいなくても、姉妹は幸せになれる。
酔漢が手を打ちながら歌いはじめた。
ちょっと下品な歌詞、気分を害した女衆が手近な花を投げつける。
花は酔漢に届かず、あたりに雨のように降り注いだ。
ただの宴会になった場で、誰もが笑い、楽しんでいる。
姉を祝福するこの場に、妹がいないことだけが心残りだった。

【ブログや掲示板で取り上げていただきました】

» 日野裕太郎『水影に赤をきく』感想:Yuya Sakurai Official Blog
成長した少年の前に現れた懐かしい匂い。その意味に戸惑い、目を背け、だが忘れられぬ想い。出会った希望に、清涼な読後感を感じた。
» 図書館群島
ト・ワンの視点を通してこれがファンタジー小説たりうる意義を確立するまで読み手を揺さぶるべく命を巡る葛藤を描ききった力量に舌を巻く。

【サンプル】

 1 殺戮の夜明け
 
 うっかり踏みそうになって、ト・ワンは謝りそうになる。
 とっさに言葉を飲んだ。吹いた生臭い風に呼吸を止め、自嘲
気味に笑う。
 謝る?
 踏みそうになったから?
 自分が殺した相手だというのに?
 手にした銅剣にこびりついた血を、横たわった男の背でぬぐ
う。
 歩き出すト・ワンの耳に、誰かの叫びが、怒号が、断末魔が
届いた。
 きっかけが頭のすみに顔を出そうとする。ト・ワンはひとり
首を振っていた。考えたくなかった。断末魔ではなく、高揚し
た咆哮が聞こえる。知っている──ト・ワンとおなじ村に住む
男の声に似ていた。
 ト・ワンたちは襲撃者だった。
 となり村との雲行きが怪しい、とト・ワンが聞かされたのは、
一週間ほど前のことである。
 小競り合いの原因は、村の尊厳にまつわるものだとしらされ

た。村の面々が集まっていく広場に、後ればせながらト・ワン
も向かった。
 広場では顔を真っ赤にした当事者の男が、声高に俺たちは軽
んじられたのだ、と叫んだ。怒鳴っていた。賛同する声の影、
当事者の年若い妻が泣く。ト・ワンのおさななじみだった。
 彼女のもとに妹を向かわせたところ、きっかけはせまい道で
行き会い、どちらが道を譲るかで揉めたのだと知った。
 たったそれだけのことなのに、事態はひどい方向に転がって
いっている。
 ト・ワンは妹にその話を忘れるよういい渡し、ト・ワン自身
も忘れることにした。
 きっかけはどうあれ、火は点いてしまったのだ。
 火急だったにも関わらず、手入れのされた武器がたちまちそ
ろえられた。誰もがそなえていたのだ。いま火が点かなくても、
予感はずっとあった。近いうち、ささいな理由であっても着火
しただろう。結果はおなじだ。善悪は関係なかった──となり
村とは、何年も前から互いに不満がくすぶっている状態だった。

 水源と肥沃な土地を取り合う村がふたつ、いずれにせよ潰し
合う日は来たのだ。

 先に動いたト・ワンの村は、潰れなかった。奇襲に成功した。
そしてひとつの村が消える。跡形もなく。なにひとつ残さない。
残してはならない。誰ひとり残してはならない。残せば、襲撃
者たちがなにもかもを忘れたころに、ふるった手数以上の痛手
を返される。自分だけでなく、自分の家族へ──子へ、孫へ、
友人へ、隣人へ。
 ひとかけの、ともすれば見落としてしまいそうなちいさな火
種のせいで、信じられない大火が起こることもある。
 ──ここになにも残さない。
 ト・ワンは重くなった腕を意識する。
 血のにおいが濃い。中央に進めば進むほど濃度が増した。風
はもうなにも洗わなかった。ト・ワンは累々と横たわる屍のな
かを行く。見知った同郷の顔もあった。襲撃しておいて、返り
討ちに遭わない、と確信できるほどト・ワンは幼くない。
 自分たちの村のものがどれほど死んだか。
 仰向けになった男のひとりが、うめいている。
 ト・ワンを認めると、忙しなく眼球が動いた。彼の身体の下
には血溜まりができている。彼自身の血を吸った服は見るから
に重そうで、彼を地面に縫い止めていた。
「背中か」

 男が瞬いた。
 かがむと、男のうなじに深い傷がある。ト・ワンを横目にし
た男の口角、血の泡が立った。
「きっと大丈夫だ」
 声をかけると、男の目に光がなくなった。助からないとわか
ったのだ。
 ト・ワンは自分の言葉がおためごかしだと恥じ入る。だが助
からない、と断する言葉は出せなかった。
 男は虚空を見る。
 倒れ動けなくなってから、すでに死を悟っていただろう。だ
がはかなくても希望も持っていたはずだ。現れたト・ワンに判
じられれば、死を受け入れざるを得ない。
 男の目元に手をやり、彼の視界をさえぎった。そのままト・
ワンは小刀で男にとどめを刺す。抵抗がないため、あっさりし
たものだった。
 ト・ワンは先を行く。
 目指す場所はない。
 ただ歩くのだ。
 生存者がいないか、ト・ワンは全身を耳にする。ひとりも残
してはならない。

 道の先、ひらけた場所に知った顔が立っていた。遠縁の男で、
ト・ワンが手を振るとやっと気がついた様子だった。彼のきつ
くなった目元が赤い。
 男はぞんざいに川の方を指し、さらにあごでしゃくる。
 そちらに行け、というのだ。
 そのとき男の向こう側で、怒号が聞こえた。続くほそい高い
声。悲鳴だ。いくつもの悲鳴。
 ト・ワンが身をかたくすると、男は首を振る。乱暴に手をは
らった。やさしさだ。男のいる道の先、声からしておそらくは
女子供が集められている。そしてひどいことが起きている。起
き続ける。終わりが来るまで。そこから遠ざけてくれる男に、
関わらせまいとする男に、ト・ワンは感謝をこめてうなずき返
した。
 進む道、そこかしこに屍があった。
 道も家屋も着ているものも、ト・ワンの暮らす村と大差ない。
だがまったく知らない背格好の屍たち。ト・ワンたちのように、
日々の暮らしに追われた背中。時折目を引く屍は、確認してみ
ればト・ワンの村のものだった。
 手についた血を屍の服でぬぐいながら、ト・ワンはにおいに
慣れている自分に気がつく。やすやすと呼吸をし、ト・ワンは

川を目指す。
 中天を過ぎたころから、陽があっても風が冷たさを持った。
ト・ワンは襟元を整えようとしたが、浴びた返り血がまだ乾い
ていない。
 日暮れまでにはすべてに決着がつく。探索できるのはそれま
でだ。
 おそらく生存者はもういない。広場に背を向けて歩いている
うちに、斃れた同郷のものを確認し、遺品を回収するのが目的
となっていた。
 しばらく進むと、家々を確認する──財がないか家捜しする
知人に出くわした。
「ト・ワン、無事だったか」
 知人には連れがいた。そろって無人になった家を漁っている。
会心の笑みで、彼らはト・ワンにいいものがあったら取ってお
け、と興奮した声を出す。
「見つけたおまえのものだ」
「生きてるやつを探すついでに、なにかないか見ておけ」
 ト・ワンはあやふやな声を返す。
「隠れてるやつがいたら、容赦するなよ」
「ガキでもだ。女がいても手を出すのはやめておけ。いいな?

 彼らは笑う。血に濡れ、醜怪に笑う。いま笑えば、ト・ワン
もおなじ顔になる。
「いいかげん隠れてるやつもいないと思うが、慎重にやれよ」
 無言でうなずくが、高揚した彼らにはト・ワンの態度がしゃ
くだったらしい。
「おまえ、何人とった?」
「遊びに来てんじゃないんだ、やり返されたら、ト・ワン、お
まえだって死ぬんだぞ」
 わかってる、と一言返すのがやっとだった。
 村を動きまわるなら、ひとりで行動すべきではない。有事に
備えて、複数で動くべきなのだ──彼らのように。悲鳴のるつ
ぼを前にト・ワンを追い払ってくれた男のように、見晴らしの
いい場所にいられるのではないのだから。
 だがト・ワンと行動をともにするものはいない。
 ト・ワンは──ト・ワンの家は、村で阻害されている。
 ないがしろにされている。
 それもしかたがないことだ。
 姉が出て行ったのだから。
 
        ●

 
 姉が出て行った。
 婚礼を二月後にひかえて、婚約者以外の男と村を出て行って
しまった。
 羊皮紙に残された短い言葉を前に、家族は愕然とするしかな
かった。探してもすでに村の近くにはいなかった。わかい男女
は消えていた。
 婚姻は新郎新婦だけの問題ではない。
 娘ひとりまともに御せない父は、笑いものになった。
 許嫁以外に男のあるふしだらな姉を持つ兄弟たちも、笑いも
のになった。
 婚礼の支度を手伝ってくれていた女衆は、みな激怒した。新
郎の家は土地持ちだ。彼の家ににらまれては生活が立ち行かな
くなるものは多い。男衆は誰もがト・ワンたちに背を向けた。

 ト・ワンたち一家は、困窮はしなかった。だが生活に障りが
出──膨大な代償を払った。四方八方への詫びのため、それな
りに大きかったト・ワンの家は、財の大半を失った。
 姉に男がいるなんて、家族は誰ひとり気がつかなかった──
気がつかなかったことを、情の薄い家だとなじられる。

 駆け落ちの相手は、ト・ワンの村に何代も前から住む細工物
の職人だった。離れた村々に細工物をたずさえて出入りをし、
行商に明け暮れていた。
 彼の母は息子たちを探し、村の外を飛びまわった。財産を換
金し、それが尽きるまで探し──得るものはなにもなく、老女
はすべてを失っていた。
 戻った晩に、彼女は村の外れで首をくくった。
 片づけたのはト・ワンと弟だ。
 死ぬことで彼女が誰になにを詫びたのか、ト・ワンにはわか
らない。
 微塵も胸は打たれず、ぐったりと重くしなだれる老いた屍に、
ト・ワンは怒りしかわかなかった。
 姉の駆け落ちの巻き添えだ──ト・ワンの縁談も、下の妹の
縁談も立ち消えた。
 ト・ワンの妻となったかもしれない女は、すでにべつの男の
妻になっている。彼女を巻きこまないで済んだことを、素直に
ト・ワンは喜んでいた。
 妹の縁談相手はいまだに暗い顔をし、道で視線を取り交わす
姿が見られた。妹たちは思い合っていた。先方の舅も姑も、妹
をぜひといってくれていたのだ。

 もう、すべてがなくなってしまった。
 妹が先方に嫁ぐことはない。べつの女が嫁に来る。妻になり、
母になる。妹の入る余地はない。妹を迎え入れれば、先方の家
の立場も悪くなる。
 ト・ワンの家族は絶望しなくてはならないのだ。
 姉たちが新郎一族に塗った泥は、残された家族がきれいにそ
ぎおとさなければならない。しかししみ入った汚れは残る。生
涯残る。新郎一族やト・ワンたち全員がこの世から消えても、
恥さらしな娘な話は残る。笑いものになった家族はそこについ
てまわる。恥をかかされた新郎一族の怒りも残る。
 縁談の潰れた妹は打ちひしがれたが、泣かなかった。
 気丈な姿が痛ましさを増幅させる。すでに逝っている母の穴
と、自ら消えた姉の穴を埋めるべく、妹は家事に追われた。
 父が馬の支度をしていることに気がついたのは、姉が姿を消
して半年ほど経った日のことだ。
 家をあける、後はおまえに任せる、とト・ワンに短く告げた
父は、わずかな荷物を持って翌朝はやくに消えていた。
 家を任されたト・ワンは、それまで以上の圧力を受けること
になった。
 ようやくト・ワンは、つらい村での日々も父に守られていた

ことを悟った。父は息子たちを守る壁になっていた。直接受け
る村人の言葉も視線も、苛烈で過酷だった。
 二月して父が戻ったとき、冬が終わろうとしていた。
 夕暮れだった。
 白い息を吐きながら、父はト・ワンについて来るよういいつ
けた。
 なにをしていたのか、疲弊した様子の父はト・ワンが問うこ
とを許さなかった。大きな荷を乗せた馬を引き、父は村長を訪
ねた。
 とちゅうでひとに頼んでいたのか、ややあって新郎一族のな
かでも実権をにぎる面々が集まりはじめた。
 人々は集まると、口々に苦情をいい立てる。
 父は黙っていた。
 ト・ワンも黙った。
 父の不在時に家を任されたト・ワンは、父に絶大な信頼を抱
くようになっていた。寡黙で誰に対しても厳しい父だ。だが家
族を矢面に立たせる愚者ではない。父が黙っているなら、沈黙
すべきなのだ。
 押し黙った父は、やがて人々の目に進み出た。
 鬼気迫る父の態度に、面々が口をつぐむ。

 無言のまま、父は荷を解いた。
 乾いた首がふたつ、現れた。
 ト・ワンの吐息は、誰かの叫びに紛れて消えた。
 女の首と、男の首。
 村長は落ち着いていた。
 最初に上がった悲鳴の後、騒ぎ立てるものはいなかった。ト
・ワンは床に転がされた姉の首を見た。表情はなかった。姉だ
とわかるのに、はじめて見る顔だった。男の首がどんな面差し
なのか記憶にない──興味がなかったためかもしれない。
 新郎一族に向かい、父は娘の無礼を詫びた。
 村長に向かい、父は村に騒ぎを起こしたことを詫びた。
 部屋にいるものに向かい、父は息子や娘たちが、村の墓に入
れるようにと許しを乞うた。
 灯りの下、疲弊した父の横顔を見た。二月の間に、老人さな
がらにしなびていた。
 ト・ワンは退出するよう村長に命じられ、家路をたどった。
 戻った父の姿を目にしていたものもいただろう。また村長宅
での悲鳴や、ただならぬ気配は屋外に流れ出ていたのか、村の
顔が村長の邸宅を囲んでいる。
 事態を尋ねる声に、ト・ワンは首を振った。自分がこたえら

れる些事ではない。
 父の姿を見て、ト・ワンは緊張の糸が切れていた。
 そして気を引き締める──まるでもののように扱われたふた
つの首。
 事態が動くだろう。どうか状況が改善されるように、と祈り
ながら家に帰る。
 兄弟たちが待っていた。全員が、肩を寄せ合っていた。五人
の兄弟が心細そうに歯を食いしばる。ト・ワンは悲しかった。
説明してやりたかったが、姉を母代わりに慕っていた末の妹に、
なにがあったか聞かせたくなかった。ほかならぬ兄弟たちに、
なにが起こったのか一切を聞かせたくなかった。
「父さんが帰ったんだ」
 どこに行ってたの──
 なにをしていたの──
 もうどこにも行かないの──
 さえずる兄弟の声に、ト・ワンは微笑んで見せる。
「いま、長たちと話をしてる。ずっと出てて疲れてるだろうか
ら、父さんを質問攻めするんじゃないぞ」
 ト・ワンは兄弟たちの問いにこたえず、そういってからひと
りひとりを抱きしめた。

 最後にすぐ下の妹を抱きしめる。妹が耳元でささやく。
「姉さんのことでしょう?」
 やはりト・ワンは微笑んだ。
 父が帰宅するよりはやく、噂が戸口を叩く。
 
 ──あんたの父さん、姉さんを始末したんだってね。
 
 なによりも妹を打ちのめした隣家のおかみの──その嬉々と
した言葉を、ト・ワンは忘れない。
 
(※ 本編に続く)









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