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女の幽霊

『女の幽霊』(日野裕太郎・篁ふみ)

「たか……」「ずっとあーちゃんとしたいって思ってた」。26歳のOL明奈は、会社の飲み会で訪れた居酒屋で、酔い潰れた大学生・孝允を介抱する。それがきっかけで、彼とつき合い始めた明奈だが、ふと入った店で、雑踏で、若い女性の姿を見かけるようになる。しだいに近づいてくる彼女の姿に、明奈は、その女が自分にしか見えない幽霊であることを知る。優しく自分を気遣う孝允に迷惑を掛けてはいけないと、ある決意をした明奈は――。強すぎる思いは人を追い込んでいく。意外な真実が待ち受けるエロティックホラー。

【サンプル】

  1
 
 
「楽しいお酒が飲みたいなー」
 テーブルの灰皿をわきによけ、明奈は大きめの声を出す。
 大きめだが、同僚たちの馬鹿笑いの声に負け、おそらく誰の
耳にも入っていない。
 べつにそれでよかった。
 会社の飲み会である。
 定番となった居酒屋『いろりばた』で、親睦をはかろうとい
う名目で月に二度、偶数週の金曜日にかならず行われているも
のだった。
 古びて見える店内の囲炉裏を模した席などは、趣があって大
変よろしい、と会社の年配層に好評だ──新年会忘年会もこの
店で行われる。ランチタイムやちょっと残業前に食事をしよう、
というときにもお世話になっている。頻繁に目にしすぎて、店
内の趣など明奈はとうに感じなくなっていた。
 供される料理はおいしい。参加者の過半数が男性なのだが、
全員が満腹になり、気分よく酔って帰れるくらいには酒が飲め、
それでも支払いのとき異論のない値段だ。だが季節ごとのメニ

ューはあっても基本メニューは変わらず、いくらおいしくても
飽きがきている。
 気心の知れすぎた女将が、空いた瓶ビールを回収していった。
 女将は社長の妹だ。
 会社の近所には、最近スペイン料理の店ができた。駅の反対
側には、古くからあるおいしいと有名な焼き肉屋がある。ガー
ド下に行けば、店の様相はよろしくないが、安くておいしい店
が軒を連ねていた。
 しかし親族の経営する飲食店が近くにあっては、ほかに行け
ない──行くことを、社長がよしとしない。
 明奈と目の合った女将は、酔って身振りの大きくなった客を
うまく避けながら座敷をやってくる。
「なに? なんか足りない?」
 内容は聞き取れなくても、明奈の口が動いていたのを目に留
めていたようだ。
「……おじさんばっかり。若いのがいない」
 そういってみたが、自分も周囲とたいして年齢差がないこと
に気がついた。気がついたときには遅い。
 女将は笑い、楽しそうに口を開いた。
「ええ? なにいってんのよ、あんただって、おばさんに片足

突っこんでるじゃない!」
 片足を突っこんでいる、という評価なのか。明奈はちょっと
だけ喜んだ。「おばさん」と「おばさんに片足を突っこんでい
る」、大差ないようだが、いわれる方としてはかなり違う。
「若そうに見えるけど、あんた三十路いってるでしょ?」
 はずんでいた気分が、風船がしぼむようにちいさくなってい
った。
「……いってないです。二十六です」
「変わんないわよ!」
 肘で明奈の腕をつつき、座敷を降りていく女将はまだ笑って
いる。五十近い女将にすれば二十六も三十も変わらないかもし
れない。軽口だろうが、明奈は憂鬱になっていた。
 明奈はため息交じりに席を立つ。
 となりにすわる同期の小野田は、真っ赤な顔をしてスマート
フォンを操作している。ちらっとのぞくと、小野田は彼氏とメ
ッセージのやり取りの真っ最中だった。
 大学を卒業して以来、ずっと勤めている。顔ぶれは変わらず、
もう緊張感などない。明奈が無言で席を立っても、小野田がス
マートフォンをいじっていても、誰も気にしない。そういう気
風の会社で明奈は楽だ。なのに時々、苛々する。恋人同士でい

うなら、倦怠期のようなものだろうか。
 座敷から一段低くなっている廊下に下り、置いてある突っか
けサンダルに足を突っこんだ。
 手洗いに向かった明奈は廊下を左に折れ、そこで壁に顔を向
け身体を折り曲げている男を見つけた。
 ちょっと足を止め、彼の様子をうかがう。
 どうやら酔い潰れているようだ。顔をのぞきこむのは気が引
ける。呼吸ははやいようだが、寝息のような規則正しさだ。
 酔い潰れたのか。横顔は若そうな印象で、学生らしき団体客
が飲んでいたのを見ていた。
 静かに歩き、廊下の奥の手洗いで用を足した。
 手洗いから出ると、彼は今度は廊下に仰向けに寝ている。
「かわいいじゃない」
 酔って真っ赤になっているが、整った顔立ちの男の子だった
──大学生だろうが、もう明奈は男の子、と思ってしまう。
 こんな顔の男の子がいたら、まわりの女の子は楽しいだろう。
もてそうな顔だが、ここで酔い潰れているのは大きなマイナス
ポイントだ。
 起こさないようまた静かに動く。彼をそっとまたぎ、飲み会
の座席に戻ってみると、

「カラオケ、そろそろ歌っちゃわない?」
 課長の声と、賛同に取れなくもない曖昧な声が聞こえた。こ
こ『いろりばた』で一次会、駅前にあるカラオケで二次会。い
つものパターンだ。行きつけのカラオケは、社長の大学時代の
友人が経営している店である。
「富田さん、今日はどう? たまにはカラオケなんか」
 足を振って突っかけサンダルを脱いでいる明奈に、営業の不
知火が声をかけてきた。
「やめておきます、ちょっと飲みすぎちゃって」
 苦笑して見せると、不知火は食い下がる。
「歌わないで、カラオケで休憩してれば?」
 やんわりとした笑顔を明奈は心がける。
「行けそうだったら、後から追いかけます。場所はわかってま
すから」
 一次会二次会と、費用は会社持ちだった。それならば、とほ
とんどの男性社員は遠慮なく飲み食いし、カラオケに出かける。
 明奈を含め、何人かは一次会で辞する。カラオケに参加する
面々は、羽目を外しやすい顔が揃っていた。せっかくの休日を
宿酔いやカラオケ疲れで潰した、とよく聞かされている。
 二次会にまでついて行って、周囲に気を遣うのは面倒だ──

羽目を外す面々と同席すれば、そうでない性質のものはどうし
ても気を遣うことになりかねない。なにより、気乗りしないな
ら行かない方がいい、というのが、二次会辞退組の暗黙の了解
になっている。
 翌日は土曜、休日だ。
 勝手に気を遣って勝手に疲弊するのはこちらの都合だが、そ
うなるのがわかっていて、わざわざ二次会に行くのは絶対にい
やだ。
 経理の女性が会計をする間、明奈は二次会辞退組と店の前で
おもての空気を吸っていた。春先の冷たい空気が頬に気持ちい
い。
「ほんと、来るならおいでよ」
 カラオケに行く一団のなかから、不知火しらぬいが手を振った。強要
されないだけいいのだろう。
 振り返している明奈の背に、
「不知火さん、富田さんに気があるの見え見えじゃない?」
 小野田が静かな声を出す。もう顔の赤味は抜けている。
「そんなことないよ。こっちもあっちも、ケータイのメアドだ
って知らないし。気なんてないでしょ」
 すでにカラオケに向かった同僚たちは駅に向かい、背は見え

なくなっている。
「メッセは?」
「それも知らない」
 無関係さをアピールするべく、明奈は素っ気ない声を意識す
る。
 うかつに接触があるとにおわせると、どこかから漏れてくっ
つけようとする動きが出かねない。カラオケに向かった一団に
いる営業マンが、そういうお節介が好きなタイプだ。
 カラオケで不知火が余計なことをいわなければいい──そう
内心祈るていどには、不知火の好意に気がついている。
「富田さんは、不知火さんどう? タイプじゃない?」
「どうもこうもないかなぁ、ってくらい、どうでもいい」
「実家、どこだっけ」
「私?」
「不知火さん、会社辞めて郷里に戻って、みたいなこと話して
ことあるんだって。あれとつき合うと、東京離れてあっちの親
と同居になりかねないんじゃない?」
 小野田の口ぶりに、いやな気分になる。
「それじゃ、不知火さんの彼女は大変そうだね」
 知らない土地で生活基盤をつくり直す、というだけで、明奈

はうんざりした気分になる。
 なにかいおうと小野田が口を開きかけたとき、どやどやと大
声で話しながら酔漢が店から出てきた。
 どの顔も若い。
 明奈は自然と酔漢の顔を確認していた。
 手洗いの前で潰れていた顔を探す。
 流れていく真っ赤な顔に、たぶん近くにある大学の学生では
ないか、と明奈は当たりをつけていた。その大学の学生寮が明
奈の住まいの近くにあり、なんとなく親近感がある。『いろり
ばた』で席を埋めていたのは背広姿の少人数の客が多く、若い
私服姿は彼らのみなのだ。
「学生かなぁ」
 小野田が暗い声を出した。
「……そうじゃない? みんな真っ赤っか」
 たかだか四年ほど前までは、明奈も学生だったのだ。おそろ
しく過去の話のような気がする。
「全員ふらふら。飲み慣れてないんじゃない?」
 呆れた口調でいう小野田に、明奈はうなずく。
「どのくらいまで飲んで大丈夫か、手探りなのかもねぇ。そこ
までして飲まなくてもいいのに」

 手洗いの前で眠っていた男の子は、大丈夫だろうか。先に帰
ったのか──そう考えてみるが、明奈は店内が気になってしか
たなかった。
「確かに。吐くまで飲んだのって、あのくらいの歳だった気が
するなぁ」
「遠い昔?」
 明奈をぶつ真似をした小野田が、店の方を向いた。
 会計を済ませた同僚が顔を見せる。
「待っててくれたんだ、ありがと。カラオケ組は?」
「もう行ってます」
 店先にいたのは、全員帰路に就くものだ。明奈は駅の方向に
進みはじめた一行と逆方向を向いた。
「店にちょっと忘れものしたんで、私はここで。お疲れさまで
す」






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